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GlycoStation誕生秘話(9)

EMCCDのディスコンは、本当に悩ましい問題となりました。GSR1200で採用していたEMCCDは、フローベル製で高い性能をリーズナブルな価格で実現できていました。イメージングデバイスは、CCDからCMOSへ世代交代をしており、EMCCDも完全になくなった訳ではないのですが、500万円から700万円といったレベルのEMCCDしか市場には存在しなくなっています。糖鎖プロファイラーの市場で受け入れてもらえる定価から考えると、こんな高価なEMCCDを使うわけには行きません。仕方なく、CMOSデバイスからノイズが少なく、400万画素、ピクセルサイズも6um以上となるようなデバイスを選んできました。

早速GSR1200に仮組してスキャンしてみたところ、全く画像が見えず焦りまくりました。従来のGSR1200では考えられないほどの長時間露光でスキャンしたのですが、何も見えません。いや、よく見ると何か見えているのですが、暗すぎて何も映っていないと勘違いしました。
「これは不味い、不味すぎる」
EMCCDはショットノイズがすごいですが、最大1000倍の増感効果はやはりすごいです。

この問題を解決してGSRにハイエンドにふさわしい性能を持たせるには、光学系を刷新するしかないと考えました。そして感度は高NAのレンズと長時間露光を組み合わせて稼ぐので、スキャン速度も大幅に上げないと目標スペックを満たせません。必要な光学系の基本性能を考えると、以下のような仕様となりました。

  • 等倍無限遠補正光学系
  • 焦点距離=40mm
  • WD=18.5mm
  • NA=0.35
  • 被写体径=Φ17.00mm
  • 光学全長=130mm
  • 歪曲収差=0.1%以下

早速、ありとあらゆる光学メーカーのFAレンズを調べたのですが、上記の性能を満たせるようなレンズが存在しません。
「ああ、そうなんだ、こんな使い方をしている装置はないということだな~~」そう思いました。
「なら、新たに開発するしか手がない」
そう思って、光学メーカー数社にコンタクトしました。
答えは「山田さん、この性能をだそうとすると、半導体の高性能ステッパー並みだし、開発費に億円かかりますよ」
「・・・・・無言・・・・・」

そんな開発費は逆立ちしてもないです。それにそんなに開発費を掛けたら、事業として開発費の回収目途が立たなくなります。そこで、思い切って「自前開発でやることとしました」。レンズを作るには硝材を溶かしてレンズの型に入れ、磨き上げるという作業が必要なので、最終的な試作は委託せざるを得ないのですが、設計さえ出来ていたら格段に安く上げられるはずです。結果として、1本のレンズを50万円程のコストで作ることに成功しました。

以下が世界にふたつとないGTレンズ(GSR2300用)です。この開発費は、産総研の久野先生からの声かけで参加させて頂いた「AMED糖鎖創薬プロジェクト」から捻出できました。
これがなかりせば、GlycoStationは2016年にディスコンの運命となっていたことでしょう。
「ありがとうございました」
「感謝しかありません」


(完成したGTレンズ)

scanned images with digital binning
(新機種GSR2300で得られたスキャン画像、Digital binning機能も追加、スキャン時間はこの例では10秒以下と超高速です)

GlycoStation誕生秘話は、これを持って完了と致します。
本GlycoStation誕生秘話を、今は亡き故日本レーザー電子社長)米田勝實氏、故GPバイオサイエンス社長)高畠末明氏の追悼と致します。
全部で9話ありますが、お時間のございます時に全話を読んで頂けると有難いと思っています。この全9話は、ゲームで言えばメインクエストでして、サブクエスト的な秘話も沢山あります。本GlycoStation誕生秘話の番外編を今後三日間にわたってお届けします。番外編:再生医療、番外編:GLI、そして番外編:精神安定剤、の予定です。

 

今日現在、GlycoStationは、合同会社エムック(emukk LLC)にて生き続けています。合同会社エムックは、GlycoStationとLecChipをご愛顧して下さるお客様がいらっしゃる限り、共に歩ませて頂くつもりです。今後とも変わらぬご支援とご愛顧をお願い申し上げます。

GlycoStation誕生秘話(8)

GPバイオサイエンスは、2012年7月31日に事業活動を停止し、最後まで残っていた全従業員を解雇しました。これを単に破産で済ませてしまえば、ご愛顧頂いているお客様に多大なご迷惑を掛けることになりますし、糖鎖プロファイラーもLecChipも何処かに事業移管されることもなく、製造ノウハウごとすべてが消え去ってしまいます。

GlycoStation事業を継続させるためには、なくてはならない最小限の人材をとにかく引き留める必要性がありました。山田を技術統括としてハード担当の坂下、それにウェット担当の横田、最低限この3人が居れば技術は継承していけると確信していました。自分は、小川と藤田にも是非とも残っていてもらいたかったのですが、高畠とはそりが合わず一足先にGPバイオサイエンスを退職してしまっていました。坂下と横田には雇用保険をもらってもらいながら、アルバイトで次の目途が立つまで業務支援してもらうという作戦を取りました。「何を持って目途が立つまでというか?これが示せなければ彼らの転職活動を止めることは出来ません。」自分は経営者サイドですから雇用保険に入っておらず、年金がもらえる歳にもなっていなかったので、収入がまったくなくなってしまっていました。

高畠が言いました「自分に任せてほしい、良い案がある、最後まで残ってくれた君たちには決して悪いようにはしない」。役員報酬は、半年ほど前からから支払われなくなっており、永富も既に出勤はしていませんでした。残っていた役員は、高畠と山田の二人です。何と因果な関係なのでしょう・・・。
「分かりました」そう答えました。
こうなっては高畠も自己破産は免れません。
「そこまでおっしゃるなら最後は好きにしてください、高畠さんに任せます」

こんなスキームでした。
新しい受け皿会社を年末までに用意します。
新会社が皆を雇用し、新会社はGPバイオサイエンスから業務委託を受けることで、雇用した従業員を養うに必要な最低限の利益を確保します。
GPバイオサイエンスは極限まで減らした固定費と必要な返済を支払えるだけの収入をこの業務委託から得ます。
GPバイオサイエンスがどうあがいても支払いが立ち行かなくなれば、裁判所に破産申請を行うしか残された方法はありません。
そして、新会社が破産管財人から事業を買い取ります。

こうやって立ち上がった新会社がグライコテクニカです。蓋を開けてみると、なんと高畠の奥様が社長に就任するという案でした。というのも奥様が持っていた休眠会社を起こしての名称変更が高畠の良い案だったのです。「そうきましたか・・・・・」。グライコテクニカの取締役には、高畠晴美氏を社長として、堤、そして山田が就任しました。堤氏は、高畠のアマシャム時代の旧友です。そして、高畠末明社長はGPバイオサイエンスの倒産とともに自己破産をしました。

従業員は、経理担当の廣瀬氏(女性)、技術者として坂下、横田の3名のみとなりました。廣瀬は、山田のモリテックス時代の旧友です。ずいぶんと小ぶりになりましたが、これで十分回せます。物には適正サイズというのがあります。許容されるマーケットサイズを超えて会社を大きくしたら立ち行かないのは目に見えています。簡単な理です。会社が「大きいから偉い」、「小さいからダメ」、そういう見方は間違いです。自然界ではいろいろな動物や植物や細菌が住み分けをしていて全体調和を作り上げています。其々に存在意味があり、其々に役割があるのです。人間社会も同じです。ようやく平穏な日々が訪れました。この平穏な日々は五年間ほど続きました、自己破産で自粛していた高畠が前面に堂々と出てくる前までのことです。表立って復帰した高畠の無謀な会社規模の拡大と見栄が、この後ふたたびこの会社を窮地に追い込んで行きました。「何故学習しないのだろう?」



(グライコテクニカの事務所と実験室の様子、ここに引っ越す前までは、事業所はモリテックスの横浜テクニカルセンター内にあり、本社はあざみ野にあるマンションの一室でした)

ともあれ、新しく発足したグライコテクニカの門出をFDAが後押ししてくれました。FDAからの商談は、GPバイオサイエンスの終期に受けていたのですが、対応できずに、この新会社で刈り取ることが出来ました。バイオ医薬品として急成長していたバイオシミラーの糖鎖解析法として、GlycoStation(GSR1200とLecChip)が評価されることになったのです。
「とうとうFDAがお客さんになった・・・・」

FDAへの納入に成功したGSR1200でしたが、先行きに真っ黒な暗雲が立ち込めてきました。というのも、使用していたEMCCDに使われている半導体チップ(TI製造)が製造中止になるというニュースが入って来たからです。ハードを長期間にわたって維持するのは非常に大変です。部品のディスコンは頻繁に起こりますし、それに合わせて同じ性能を持たすべく再設計が必要になるからです。主要部品がディスコンしたりするとハードそのものをディスコンにせざるを得ない場合も出てきます。主要部品のEMCCDがディスコン・・・・、最悪の事態です。インフォビが製造販売していた光絶縁入出力基板がディスコンした時も焦りました。しかしこの時は幸いにも回路図が基板についていたので、芙蓉電機の協力をえて、ディスコンした基板の作成が可能になりました。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(9)」にて・・・・、
ひょっとしたらGlycoStationを続けられないかもしれない、そんな焦燥感が襲い掛かってきました・・・・

GlycoStation誕生秘話(7)

2007年にモリテックスからGlycoStationを上市以来、年間平均5回の海外出張で世界中に販促活動を行っていました。1回出張に行くと2週間以上、1ヵ月近くは帰ってこない、そんな感じでした。GPバイオサイエンスになってからも同様なペースで海外のマーケット開拓の活動を維持していました。GlycoStation誕生秘話(7)は、趣を変えて、写真集で海外販促活動の一端をお伝えしたいと思います。

(グライコミクス研時代に作成した販促用のビデオです)

ProcogniaにGSR1200を設置する
高畠の右側は、Procognia社長のAlon Natanson、左は技術のTOP(名前忘れました)、地中海に沈む夕日を眺めつつ懇親会(2009年8月)

BioPolice(シンガポールのワン・ノースに位置する国際的なバイオメディカル分野の研究開発拠点)にあるNovartis(熱帯病研究、ウイルスと糖鎖関連)を訪問(2009年9月)

エジンバラ大学のProf. Peter Andrewsを梅澤先生とともに訪問、Peter Andrewsは幹細胞マーカー(Tra-1-60やSSEA-4など)の世界的権威であり、再生医療分野への参入のきっかけ作りに幹細胞の糖鎖プロファイリング研究を推奨(2009年9月)

その後、フランクフルトにあるDRK赤十字(輸血と糖鎖)を訪問、BaselにあるNovartis(癌治療)を訪問(2009年9月)

韓国代理店(InSung Chroma-Tech)のYoon社長のお力を得るべくソウルへ(2010年5月)

香港大学医学部を訪問、インフルエンザ・ウイルス研究にて糖鎖アレイの要望を受ける(2010年5月)

San Fransicoで開催されたBio2010では展示会に合わせてナパバレー・ワイナリートレインツアーを企画し、山田がツアーコンダクターを務める(2010年6月)

そのまま欧州へ飛んでKarolinska研究所内の創薬ベンチャーを訪問、UCL癌センターを訪問(2010年6月)

インドのバラナシ―ヒンズー大学を浅島先生のかばん持ちで訪問、学会の併設展示を行う、ガンジス川で沐浴し、将来のインド進出を祈願(2010年10月)

Milanoで開催されたBioEuro2011に北海道グループからブース展示、右から3人目はイーベックの土井社長でその左隣に山田がいる(2011年3月)

Philadelphiaで開催されたBio2011にブース展示(2011年6月)

Bio2011で知り合ったGoda & Assciatesの合田社長とNIH, FDAを訪問、GlycoStationの技術説明を行う(2012年10月)
そしてその翌年、2013年10月に、GSR1200がFDAに設置される

しかし、GPバイオサイエンスは、設立後わずか3年5カ月(2012年7月末)で事業停止状態に陥り、2013年3月末には破産申請を北海道地方裁判所に提出することになりました。
GPバイオサイエンスの軌跡については、既に別のページに概略がアップされているので、そのリンクを参照ください。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(8)」にて・・・・、
またまた新たな苦悩が始まりました、避けたかった二度目の会社倒産

GlycoStation誕生秘話(6)

GPバイオサイエンスと産総研の間に隙間風が吹いてきた。この感じは、徐々に現実味を帯びてきます。GPバイオサイエンスの代表である高畠が産総研の先生方にご挨拶出来ない日々が続いていました。これには理由がない訳ではないので「だよね!」としか言いようがありません。前回までのGlycoStation誕生秘話をお読みになっている人にはお分かりになるはずです。

モリテックスがショットに買収されて、グライコミクス研究所がスピンアウトしてGPバイオサイエンスを起業した時に、日本レーザー電子以来のパートナーであった奥村は、GPバイオサイエンスには参加せず、モリテックスを退職して、隆祥産業に就職していました。隆祥産業とは、今のレグザムのことであり、2010年に社名を隆祥産業からレグザムに変更しています。その隆祥産業に、何と産総研の平林研でモリテックスとともにレクチンアレイを開発した内山氏が転籍していたのです。こんな奇遇ってそうそうあるものではありません。背後に筋書きがあることを自分は瞬時に感じ取りました。穿った見方かも知れませんが、恐らく産総研はイスラエルとつながった小さなベンチャーGPバイオサイエンスに不安を感じ、せっかく開発した糖鎖プロファイラーとレクチンアレイが無くなってしまうリスクを恐れて、安心できるセカンドベンダーを育てようと考えたのだと思います。隆祥産業は、香川県高松市にあります。そして香川大には希少糖やガレクチンの研究で著名な研究者もいました。「匂う匂う、見えない糸が・・・繋がっている?」自分はそう思いました。

GPバイオサイエンスでは、GSR1200は高性能でとても良いのですが、2000万円を超える定価というのがお客様の懐に優しくはなく、普及版を開発しないと行けない、と当時考えていました。こうなったら、その普及機をレグザムと共同開発してはどうか?「物事がこんがらがる前に何とかしないと不味い」そう思った自分は奥村と連絡を取り合い、ふたりは意気投合してGPバイオサイエンスとレグザムの接点作りを開始します。2010年10月には、GPバイオサイエンスとレグザムの技術交流会がレグザム本社にて開催されました。GPバイオサイエンスからの出席者は、山田と坂下です。坂下氏は、元ソニーグループに居た技術者であり、金子がGPバイオサイエンスに転籍しなかったことから、ハードの担当としてGPバイオサイエンスで新たに雇用した技術者でした。そして、2011年5月には、GSR1200の普及機の共同開発に向けて秘密保持契約を締結することに成功します。後に坂下はうつ病を発症し、脱落していくことになります。

次世代機というか、普及機の仕様は、両社で作り上げました。簡単に言うならば、解像度を犠牲にしてスキャン速度を速め、ステージや励起光源を簡略化し、部品点数を減らして、小型化と低価格化を同時に実現するというものです。完成した普及機の名前が、「Bio-REX Scan 200」です。これはレグザムから販売される糖鎖プロファイラーの名称であり、GPバイオサイエンスから販売されるそれには「GlycoLite 2100」という名称がつけられました。名称と外観はそれぞれに異なるのですが、実は中身は全く同じです。GPバイオサイエンスからは、このGlycoLite 2100を定価=850万円で売り出すことにしました。名前と外観こそ違えどスペックが同じということでは、レグザム機とGPバイオサイエンス機が市場で完全にバッティングしてしまうことが目に見えています。レグザムの事業の基本はOEMです。ダイキンのエアコンのように、中身はレグザムでもブランドはダイキン、そういう戦略を糖鎖プロファイラーに対してもレグザムが取れれば何も問題がなかったと思います。しかし、レグザムは自社ブランドでこの商品を販売するという主張を頑なに曲げませんでした。糖鎖のマーケットサイズを良く知る山田と奥村は、こんなことで喧嘩しても始まらない、両機の定価を合わせ、営業テリトリーを棲み分けるなどの手段を駆使すれば、最良な関係ではないけれどもWin-Winの関係を作れるに違いないと話をしていました。そして山田と奥村は、機が熟したところで、レグザム副社長と高畠社長がレグザム本社で会する契約書の調印式を設定しました。

シャンシャンと手拍子で終わるはずだったその日、高畠が唐突に怒り出して調印式は決裂、レグザム副社長は憤慨して、山田と高畠はレグザムから追い出される羽目になりました。レグザムでは、来社されたお客様にレグザム製のさぬきビールをお土産に、関係者全員が玄関に並んでお客様をお見送りするというのが恒例なのですが、奥村曰く、「土産もなく、お見送りもなく、追い出されたのはこれが初めて」という「レグザム始まって以来の珍事」でした。「やべ~~、帰りのタクシーの中では、自分も高畠も無言でした、話をする気もありませんでした」
「あ~~、終わったな~~、そう思いました」

高畠が何を恐れて調印式をぶち壊したのか?今となっては知る由もありません。自分と高畠の間には正直言って確執がありました。特許戦争から始まった喧嘩相手の関係です。男と女じゃあるまいし、喧嘩で始まった男同士が打ち解けるはずもありません。高畠は見栄っ張りで他人の意見を聞きません、これに正論でぶち当たる自分が彼に受け入れられるはずもありません。実例を上げるとピンと来るかもしれません。山田がレグザムと高松で会議するときには、高畠は女性の「かばん持ち」を必ずつけるのです。このかばん持ちが何をするか?自分が会社に出張報告する内容が「一字一句間違いがなかったか」をそのかばん持ちに裏で報告させるのです。
「こんな嫌がらせあります?」「かばん持ちが山田を見る目が心苦しそうでした」
「自分が守りたかったのは高畠のGPバイオサイエンスではなく、自分達が作り上げたGlycoStationという技術体系とお客様と、そして苦楽を共にしたグライコミクス研の仲間だったのです。」


(GPバイオサイエンスブランドのGlycoLite 2100、しかし実は中身はレグザムブランドのBio-REX Scan 200とまったく同じです)

しかし、自分は技術屋としてBio-REX Scan 200(GlycoLite 2100)を手放しで良くできましたと褒めていたわけではありません。GSR1200をハイエンド機とすれば、その半額以下の価格で普及機だから「しゃあないか?それにしても・・・・」という感じで見ていました。GlycoLite 2100があるからGSR1200は用済みだ、とはならないと考えていたということです。GlycoLite 2100のどこが駄目だったのか?具体的な例をお見せしましょう。下図において、左側がGSR1200の面内輝度分布であり、5%以内に綺麗に制御されています。それに対してGlycoLite 2100(Bio-REX San 200)のそれは右側ですが、何と面内の斑が40%を超えているのです。これが何を意味するか?信号強度の小さなレクチンは全く信用できません。そしてその原因は光学系の設計に問題があること、Backgroundの補正ソフトがまったく不完全であることを意味しています。


(GSR1200とBio-REX Scan 200のBackgroundの斑には雲泥の差がある)

この続きは「GlycoStation誕生秘話(7)」にて・・・・、
海外販促の様子をお見せできればと思います・・・・

(余談:山田は後に、坂下の後継技術者となる山根とともに、GlycoSuperLiete(GSL)を開発します。本機は定価が385万円と圧倒的な低価格を実現できており、しかも世界最速の糖鎖プロファイラーとなります)

GlycoStation誕生秘話(5)

世界でいち早くレクチンマイクロアレイの商業化を進めた事業体が実は二カ所あったのです。一つは日本、そしてもう一つはイスラエル。日本とイスラエルって繋がりがあるのかしら?日本のそれはモリテックスのグライコミクス研究所であり、イスラエルのそれはProcogniaでした。それぞれに商標を持っており、モリテックスが「GlycoStation」、そしてProcogniaが「GlycoScope」です。

特許紛争とモリテックスの内紛で万策尽きた自分は、「Procogniaとの和解しか道はない」と思い始めました。そして、2008年11月、グライコミクス研究所の代表者(山田と小川)、そしてProcogniaの代表者(Ron Long, Alon Natanson, 高畠末明)がロンドンに集結し、和解に向けての話し合いを行いました。本来ならモリテックスの代表者がProcogniaと議論すべきなのに、モリテックスはこのマターをグライコミクス研究所の問題として投げつけてしまっていたのです。モリテックスを買収したショットもグライコミクス研究所の事業を継承しないのですから、致し方ないです。「降りかかる火の粉は自分で払うしかありません。」

「こんな小さな糖鎖のマーケットで睨み合ってもしょうがない、二社で協力して事業開拓をしませんか?」自分はそう問いかけました。そして、議論の末、「二社が協力して新会社を日本に設立すること」で合意したのです。

ところで、高畠末明氏とは何者か?
詳しい経歴は自分も良く知らないのですが、東芝にて発電関連事業の営業として入社直後から海外を活動拠点として活躍し、東芝欧州営業拠点の社長を務めていたようです。しかし、40代で東芝を退職し、アマシャムの社外取締役らを経て、個人事業を行っていたようです(ロンドンに在った居酒屋あき(安芸)を経営、Lamerwood G&CCというゴルフ場もあったとか・・)。そしてその傍ら、Procognia会長(Ron Long氏)の協力者としてProcognia Japanの社長も務めていました。Procognia Japanと言っても、実際には彼はロンドン在住であり、Procognia Japanには、取締役の永富佐江子氏1名のみが東京在住だったようです。

Procogniaとの和解交渉が成立後、年が明けて、2009年2月、札幌を本社として「GPバイオサイエンス」が設立されました。設立当初の役員は、高畠、永富、そして山田の3名であり、役員2名がProcogniaからという形になってしまいました。この役員比率(Procognia=2 vs グライコミクス研=1)では、自分の意見を経営に生かすことが難しくなります。更に、高畠は、アマシャム時代の旧友を相談役や営業部長に引き連れてきました。益々、GPバイオサイエンスの意思決定は、高畠が思い通りに動かせる状態になっています。グライコミクス研は、自分以外は、新卒採用の若い技術者ばかりです。

そんな中、永富は高畠に対して「強い不信感」を持っていたこともあり、自分とタッグを組んで高畠に進言をしてくれたのは唯一の救いでした。と言っても、「永富の言うことを高畠は意に介さない」という残念さはあるのですが、ともあれ自分の味方です。その時のよしみから、監査役であった蛭田(信次)氏とともに、永富とは今でも連絡を取り合っています。


(ロンドンの居酒屋あきにて、左から小川、山田、そして高畠の3名)
(年がら年中敵対しているわけではなくて和やかな時もあります)

グライコミクス研究所の所員にとっては、モリテックスからGPバイオサイエンスに移籍するというのは大きな大きな掛だったろうと思います。
「せっかく東証一部の企業に入社できたのに、ベンチャーに行くわけ?」
「給料大丈夫なの?」
「つぶれないの?」
「外資系ってこと?」
「札幌に転勤するわけ?」
自分は、GlycoStationの技術を守り通すために、一生懸命説得を行いました。一緒にGlycoStationを開発する苦労を分かち合った仲間を失いたくはありませんでした。残念ですが金子と阿部はモリテックスに留まると決意し、GPバイオサイエンスに移籍したのは、齋藤、武石、小川、藤田、横田の5名となってしまいました。当面の資金は、北海道ベンチャーキャピタルが支援してくださることになりました。本社は札幌、そして事業所は横浜、グライコミクス研究所が在籍していたモリテックスの横浜テクニカルセンター内に我々の事務所と実験室がそのまま残りました。
日本の技術で糖鎖解析の世界スタンダードを目指す

このようにして、GPバイオサイエンスがともあれスタートしたものの、自分は、GPバイオサイエンスと産総研の成松先生や平林先生との間に「冷たい隙間風」が吹き込み始めていることを感じていました。
「Procogniaが産総研を敵に回してしまっていたこと」
「一部上場企業からベンチャーに移ってしまい、企業の存続性や資金力に疑問がついたこと」
また、新たな問題が吹き荒れそうな気配が忍び寄っていました。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(6)」にて・・・・、
新たな競合の出現、高畠と山田の確執・・・・

GlycoStation誕生秘話(4)

モリテックスに入社したのは2004年のことですから、新参者の自分には、モリテックスが抱える影の部分には最初は気が付きませんでした。しかし、部長会に出るようになってからは、森戸会長のお姿も目にするようになり、独特なオーラがその場を支配していることに気が付きました。

具体的にはどんな反目があったのかは自分には定かではありませんが、2006年4月の取締役会で会長解任の緊急動議が発議され、森戸会長が辞任することとなります。これによってモリテックスの内紛が表舞台に上がり、ますますエスカレートしていきます。翌年の2007年6月の株主総会では、モリテックスと事業提携したばかりのIDECが森戸会長側に付き、森田社長らモリテックスの現経営陣との間でプロキシファイトが勃発します。結果的には、IDEC側が負けた形になるのですが、その後「議決権の行使に違法行為があったのではないか」とIDECとモリテックス間の紛争が勃発し、2008年2月の高等裁判所による和解成立までこの紛争がもつれ込みます。そして、この和解によって森田社長が退任し、新たに仁科氏が新社長に就任することになります。
2007年の株主総会と時期を同じくして、モリテックスは、同社の企業価値を上げるものとしてドイツのショットと事業提携契約を結んでいます。この事業提携によってショットの存在感はその後益々強くなり、2008年9月には、ショットがモリテックスにTOBを掛け、過半数を取得して社名もショットモリテックスに変更されます。自分を引き立ててくれた、森田社長も、小谷専務もモリテックスから既に居なくなってしまっています。
穿った見方ですが、新参者の自分からしてみると、この内紛は現経営陣の「モリテックスから会長の影響力をなくしてしまいたい」という思いを遂げるための、第三者(IDEC:会長側、ショット:現経営陣側)の力を借りての闘争劇なのですが、結果としては会長も社長も退任せざるを得なくなり、第三者(ショット)に会社を乗っ取られたということになります。そして、ショットモリテックスの社長には佐藤氏が就任し、岩本氏が取締役として生き残ります。まるで影のフィクサーが居たかのようなどんでん返しです。仁科社長もショットのTOBで短命で終わってしまいました。

一方、グライコミクス研究所の営業活動によってGlycoStationという存在が世界に広まるとともに、2008年にイスラエルの地からとんでもないクレームが舞い込みました。「御社の技術は弊社の特許を侵害している」。同じ特許侵害のクレームは、共同研究先であった産総研糖鎖工学研究センターの成松センター長にも届きます。産総研は学術研究機関であり営利企業ではありません。そんな産総研にまで特許侵害の警告を送り付けてきたのです。その相手とはProcogniaであり、直接的にはProcognia Japanの高畠末明社長と永富佐江子取締役です。特許侵害のクレームを読むと、NEDO SGプロジェクトで三井情報開発が開発した糖鎖構造推定ソフトがやり玉に挙げられているようです。確かにモリテックスからGlycoStationを上市した時には、パンフレットにこのソフトの存在が記載されていました。しかし、レクチンアレイの強さは、糖鎖構造の完全同定ではなく、比較糖鎖プロファイリングでしたから、こんなこともできるよという意味合いで掲載しているだけで、実際の営業活動では全く使用していませんでした。そこで真っ先に行ったのは、パンフレットからこのソフトを抹消することと、そしてProcogniaの出願特許の詳細吟味を行うことでした。特許の文面を読んであきれ返りました。
「なにこれ、こんな抽象的なクレームが許されるわけ?」
というのも、特許のクレームがあまりにも茫漠、何とでも解釈できるクレームだったからです。
こんな特許なら無効申請ができるに違いないとにらんだ我々は、山田、武石、小川の3人で徹底的に過去の関連特許を検索し、「この特許とこの特許の組み合わせにしかすぎず、特許としての新規性も進歩性もない」として「戦えば勝てるに違いない」と判断しました。そして、その報告書をモリテックスの法務部に提出し、Procognia特許の無効申請を行ってくれるように頼みました。

しかし時期が悪すぎました。ちょうど同じ時期に上記したモリテックス事件が勃発していたからです。法務部は会社の一大事としてそちらにエネルギーを取られ、これに加えて特許戦争も行うとなると特許事務所に支払う費用も海外との特許紛争ですから億単位にかさむ可能性があることから自分達のProcognia特許無効申請は捨て置かれることになるのです。

モリテックスもショットに買収され、バイオ事業を引っ張ってくれた森田社長もおらず、自分を引き立ててくれた小谷専務もいません。岩本取締役が唯一の頼りでした。岩本取締役は、ショットのオットマー・エルンスト氏にグライコミクス研究所の事業計画を取り次ぐ労を取って下さり、自分もショットという場でこの技術を育てられれれば「世界に大きく羽ばたけるだろう」と精いっぱいのプレゼンをさせてもらいました。しかし、ショット自体がバイオ系事業を事業ドメインとして据えていないことから、結果は残念ながら不発に終わります。
「グライコミクス研究所は、モリテックス内に居場所を失いました」

事ここに至っては、モリテックス以外に新天地を見つけるしかありません。
「仕方がない、モリテックスをスピンアウトして独立する為のエンジェルを探そう」
何社かのVCや事業会社にグライコミクス研究所の事業計画を説明し、投資のお願いを始めました。この時に大きな足かせになったのがProcogniaとの特許紛争です。
「この特許紛争を抱えたままではリスクが大きすぎて、投資が難しいですね」
どこからも似たような返事が返ってきてしまいました。
「やばい、やばい、やばい、万策尽きてしまったかもしれない」
「グライコミクス研究所の所員は若く、相談相手にはなりません」
「さあ、どうする山田・・・」


(これが、GSR1200です。Scan IIIとは外装も仕様も大きく変更されました)

この続きは「GlycoStation誕生秘話(5)」にて・・・・、

GlycoStation誕生秘話(3)

GlycoStationがいよいよ2007年9月にモリテックスより上市されました。営業活動の開始です。モリテックスにおけるバイオ事業関連の営業TOPは、塙部長でした。日本レーザー電子から移籍した営業部隊(奥村、江崎)も塙部長配下の竜野部長グループに配属されていました。糖鎖やレクチン関連の類似商品はそもそもマーケットに存在しておらず、モリテックスの営業マンも糖鎖プロファイラーやレクチンアレイの技術とその応用については無知ですし、完全にゼロからの販路開拓となりました。

研究所だからと「研究開発に没頭していれば良い」というだけの環境とは全く異なります。まずは、研究者自らが、技術や製品の特長を説明しつつ、マーケットを開拓していかねばならない状況であることをグライコミクス研の研究者全員が理解する必要がありました。販売目標も、一次案は研究所が作り、納得性を持って営業部に理解してもらい、共に動く必要があるのです。いや営業さんに動いて頂くのです。自分は、そもそも20年近くも半導体の世界にいたので、バイオ系、ましてや糖鎖とレクチンに関しては、SGプロジェクト繋がりを除けば全くコネクションはありませんでした。しかし、SGプロジェクトはNEDOが牽引する大きなナショナルプロジェクトですし、参加者(大学、企業)も多いので、まずはこのメンバーとその協力組織も潜在的な顧客に成り得ました。これは大きなプロジェクトに参画することのメリットです。

SGプロジェクト外のマーケットを切り開いていくには、営業効率を高めるためにも考えられるマーケットを想定して予め潜在顧客層を絞り込む必要があります。3つの領域に焦点を合わせました。ひとつはバイオマーカー探索、もうひとつはバイオ医薬品の糖鎖修飾、そして最後は再生医療です。日本の糖鎖とレクチンの世界には不思議な派閥関係が存在していました。下手に動くと、競合するグループから締め出しを食らってしまうリスクがあります。そこで、まずは産総研とも良好な関係を保っていて、糖鎖バイオマーカー研究では第一人者である阪大医学部の谷口先生に相談を持ち掛けました。彼は快く二人の先生を紹介して下さり、彼らといっしょに動いてみてはどうか?と指導してくださいました。一人は、同じく阪大医学部におられる三善先生、もう一人は岡山大医学部におられる和田先生でした。もう一つのルートは、自分が仕掛けたモリテックスとGeneticLabの事業協力関係から、GeneticLabの顧客ルートを共有させてもらうことでした。このルートからは、北海道情報大におられる中林先生とのつながりを起点にしました。三善先生は、潰瘍性大腸炎やクローン病のバイオマーカー探索、和田先生は尿からの糖尿病性腎症のバイオマーカー探索、中林先生は肝がんのバイオマーカーに着目されていました。

GlycoStationを世界のデファクトスタンダードにすべく、国内の営業開拓と同時に海外の営業開拓にも取り掛かりました。国内ですら知り合いが少ない中、海外の糖鎖やレクチンの研究者は全く知らない状態でしたので、Glycobiologyの国際会議の出席者リストや米国CFGのメンバーリストを突破口として、GlycoStationとLecChipに関する技術情報をメールで一名一名に配信しました。BCC配信で大勢に一気に送るなんて言うやり方はしませんでした。送り先の研究者のお名前を一人一人きちんと記載し、1対1の関係を作ろうとしたのです。反響はすぐに現れました。Scripps研究所、Burnham研究所、Stanford大学、Emory大学、Johns Hopkins大学、Harvard大学、NCI、NHI、Cambridge大学、UCL、そしてAcademia Sinica。中でも真っ先に返事を下さったのは、ScrippsとBurnhmanであり、かの有名なJames Paulson先生や、Hudson Freeze先生だったのです。「かの有名な」と言う修飾子をPaulson先生に付けましたが、実は当時は彼が何者かをも全く理解しておらず、返事をくれたやさしい研究者と言うだけの思い込みで突貫しました。
Paulson先生も「なんだか変だな」と思ったのでしょう。
「ひょっとして君、自分の事知らない?」って聞かれてしましました(笑)。
知らない事ほど強いことはありません。自分の返事を下さった先生方はことごとくこの分野ではbig nameだったようでして、もしそれを知っていたら、尻込みしちゃっていたかもしれません。

GSR1200の定価は、2,100万円に設定されていました。そしてLecChipの定価は45,000円でした。まだ世の中に存在しないこんな高価な装置をすんなり買ってくれるようなお金持ちはまずいません。そこで、販促開始当時は、消耗品であるLecChipを数十枚購入してもらうことを前提に、GSR1200を一定期間貸し出しする、そして、気に入ったら予算申請をして是非購入をお願い致します、是非論文の執筆もお願い致します、というスタイルを取りました。営業を海外展開するに際して、モリテックスの米国拠点と英国拠点の皆様には大いに助けて頂きました。米国については、モリテックスの米国営業をサポートしていたChris Dalton氏が積極的に加わって下さり、デモや展示会では大変お世話になりました。また、森田社長は、欧州がことのほかお気に入りということもあり、英国内の販促では一緒にCambridgeに行ったり、ドイツのWismarにあるモリテックスの所有地を一緒に見学し、
「どう、ここにバイオの欧州拠点を作らないか?」って夢のある話をして頂いたり、協力先になるであろうFraunhofer instituteを二人で訪問したりもしました。自分も欧州の販促はとても好きです。電車に乗って移動するのが旅情を誘って良いですよね。食堂車でワインを飲みながら、流れゆく景色を眺めていると、とても幸せな気分になるのです。


(森田社長とドイツへ)

(Wismarにあったモリテックスの所有地を森田社長と訪問)

営業活動は、メールのみでなく、実際に欧米での展示会にもモリテックスのブースを出しました。2007年には、Bostonで開催されたGlycobiology2007のSummit GlycoResearchのブースに相乗りさせてもらい、San Diegoで開催されたBio2008、Philadelphiaで開催されたISSCR2008、Barcelonaで開催されたISSCR2009などには単独でブース展示をしました。特に、Bio2008では、糖鎖関連事業の大きなイベントとしてJetro主催の糖鎖工学セッションが併設されたこともあり、平林先生、梅澤先生、住友ベークライトの藤原部長(現住友ベークライト社長)や大久保氏と共にプレゼンをさせて頂く機会を得ました。住友ベークライトとの関係がこれを機会に急速に深まっていきました。


(Glycobiology 2007: Summit GlycoResearch (SGR)のブースに相乗り)

(BIO2008: 平林先生と齋藤)

(ISSCR2008: Chrisが応援に駆け付け)

このようにして、グライコミクス研究所が営業においても前面に立ってGlycoStationのマーケット開拓を全世界で進めていきました。富士通から転職後、日本レーザー電子の倒産という悲哀をなめた自分でしたが、眼前に新天地が広がったような高揚感を覚え、働いていることが楽しくてしょうがない時期が来ていました。


(La Jollaにて、Burnham Instituteでの大きな仕事の後、米国西海岸を楽しむ藤田、山田、そして金子)

この続きは「GlycoStation誕生秘話(4)」にて・・・・、
しかし、GlycoStationの全世界での拡販が思わぬトラブルを招きます。
そしてモリテックスにも思いもかけぬ問題が起ころうとしていました。

GlycoStation誕生秘話(2)

日本レーザー電子が倒産し、破産管財人からバイオテクノロジー関連事業を買収したモリテックスには、合計7名の社員が移籍しました。米田(元)社長は、モリテックスの顧問となりました。移籍したのは、技術陣は山田以下4名、営業は奥村以下2名です。移籍した場所は、モリテックスの横浜テクニカルセンター、そして最寄り駅は田園都市線の江田駅です。横浜テクニカルセンター(岩本センター長)には、横浜事業所(名倉所長)とナノ・バイオサイエンス研究所(所長は岩本センター長が兼務)、そしてシステム開発部(川田部長)がありました。
移籍した自分たちのミッションは、買収した日本レーザー電子のバイオテクノロジー関連事業をモリテックスという場に落とし込むことであり、このミッション遂行の為に、NLEプロジェクトというプロジェクト名が付けられました。自分は、モリテックスに赴任すると横浜テクニカルセンターの副センター長に任命されたのですが、主たる仕事としてNLEプロジェクトのリーダーに任命され、3ヶ月以内に事業移管を完了することと言う社長命を受けました。主な内容は、DNAチップ事業、SPR事業、そしてエリプソメーター事業の事業移管であります。NLEプロジェクトの中には、SCAN IIIという技術資産はあったものの、糖鎖プロファイラーはまだこの世に存在しておらず、具体的な移管の対象ではなかったのです。というのも、糖鎖プロファイラーは開発中の技術であり、NEDOの糖鎖構造解析技術開発プロジェクトの目玉のひとつだったのです。

DNAチップ事業のひとまずの目標は、日本レーザー電子が共同研究していた名大農学部との2,397遺伝子を搭載するシアノバクテリアcDNAマイクロアレイの完成でした。その為、日本レーザー電子を退職し東京医科歯科大の法医学教室に移籍していた島田氏の協力を取り付けて実行に移しました。後に、彼はモリテックスに転職することになります。東京医科歯科大の法医学教室教授からは、島田を横取りしたと随分なお叱りを受けました。SPR事業では、NanoSensor, SPR-670M, SPR-MACSという3機種をモリテックスから新製品として販売を開始し、エリプソメーターは、液晶配向制御用の検査機として日本レーザー電子から移籍した田ノ岡氏を主担当としてシステム開発部の協力を得ることになりました。日本レーザー電子では、横浜への転居に尻込みする従業員も多かったため、技術移管に協力してくれる技術者が不足し、モリテックスの皆様には大変ご迷惑をおかけしながらも、期限内に本ミッションを完遂することができました。

事ここに至って、「日本レーザー電子というベンチャー企業の最期をこの手で見取り、事業移管という形でその技術資産をモリテックスに残せた」という大役を果たせた脱力感が一気に自分に襲い掛かりました。当時、とある半導体系の事業会社から、2000万円の年収でヘッドハンティングを受けていたこともあり、小谷専務に恐る恐る「モリテックスを退職したい」旨を伝えました。当時の年収を思い出すほどに、現在に至るまで日本人の年収が如何に停滞していたか、憤りを感じます。小谷専務が「自分に全幅の信頼を置いていてくれていることを深く感じていた」ので、その時は本当にモリテックスに対して申し訳ない気持ちで一杯でした。しかし、小谷専務に「モリテックスの将来のバイオ関連事業を君に任せるつもりなんだ、今居なくなられると非常に困る」と強く説得され、折茂副社長にも接待付きで口説かれ、森田社長からもラブコールを受け、役員総出で遺留されたため、とうとう自分も折れてしまいました。見返りを手にしたことも自分を納得させる理由のひとつだったかもしれません。理事に昇格させてもらうことで経営陣に名を連ね、岩本取締役の後を継いでナノ・バイオサイエンス研究所長に就任し、そして何よりも大きいのは、日本レーザー電子時代に銀行からの借り入れに社長と共に連名で裏書をしていたことで発生した借金の返済をボーナスの上乗せで帳消しにしてもらったことです。社長は自己破産してしまったので、連名者の自分に負債が降って来てしまったという訳です。1000万円程度の負債で自己破産するなんてばかばかしいですし、かといって、返済するにはそこそこ痛い額な訳です。とにかく、そうと心が決まれば、モリテックスのバイオ関連事業の為に身を粉にして働くのみです。そして、これを持って半導体への未練はきっぱりと捨て去ることにしました。

NEDOの糖鎖構造解析技術開発プロジェクト(通称、SGプロジェクト)は、産総研・糖鎖工学研究センター長の地神先生、副センター長の成松先生をリーダーとし、2003年4月から3年間の予定でスタートしていました。このSGプロジェクトに自分達が参画できたのは、2002年暮れに産総研の平林先生が日本レーザー電子に来社されたことがきっかけです。当初は日本レーザー電子がSGプロジェクトのメンバー企業でした。自分とScan IIIの担当だった高島氏が日本レーザー電子からメンバーとして参加していました。自分達の直接的な共同研究者となったのは、産総研の平林先生のグループであり、久野先生や内山氏には本当にお世話になりました。2004年春には、日本レーザー電子が倒産してしまったこともあり、この事業をモリテックスが継承することとなります。糖鎖プロファイラーの主担当には、モリテックスから新たに堀尾氏が指名され、バイオ組合の槙野様のご協力を得て、三井化学に席を置く江部氏にモリテックスのメンバーとして産総研に出向してもらうになりました。本来なら、高島氏にモリテックスに移籍してもらってこの事業を継承してもらいたかったのですが、どうしても岐阜からは転居できないとのことで、止む無く堀尾氏に一肌脱いでもらうことになった訳です。糖鎖プロファイラーが完成出来たのは、ナノ・バイオサイエンス研究所単独の力ではなく、横浜事業所の面々の積極的な支援があったことを感謝せずにはいられません。

産総研での開発成果のモリテックスへの技術転移に際しては、日本レーザー電子から移設した設備だけでは足りず、2006年にはレクチンアレイ製造用として選定したMicrosys4000の購入や設置するクリーンルームの新設など総額3000万円を超える追加設備投資を稟議で行いました。SGプロジェクトが発足した当初は、糖鎖プロファイラーとレクチンアレイの開発に対する我々が割ける人的リソースは上記したように最低限でしたが、2005年に小川氏(Ph.D.)が新卒で合流、2006年には藤田氏と壷内氏(ともに女性)が新卒で合流、武石氏(Ph.D.)が中途採用で合流し、藤田氏(女性)と武石氏を技術移管の為に3か月の技術研修に産総研に派遣しました。2007年には、更に横田氏(女性)と金子氏(Ph.D.)が合流し、事業化に向けての陣容が出来上がって行きました。そして、2007年4月には、横浜テクニカルセンター内にグライコミクス研究所が新設され、山田を含め9名での船出となりました。内5名が博士号を持ち、所員の半数以上が全員新卒という若々しい力にあふれた研究所陣容でのスタートでした(山田、齋藤、金子、阿部、武石、小川、鶴山、藤田、横田の9名)。


(LecChip完成祝い、2007年6月28日:山田、武石、小川、藤田、横田)

山田は研究所長として総責任者、齋藤と金子は糖鎖プロファイラー担当、阿部はペプチド合成機担当、武石、小川、藤田、横田はウェット担当、鶴山はペプチド合成の担当でした。レクチンアレイの製造とその品質管理については、小川、藤田、横田の3名が主担当であり、武石は阪大医学部、岡山大医学部、北海道情報大らとのバイオマーカー探索らの共同研究が主担当でありました。武石は、過去に富士通における自分の部下だったのですが、かなり個性が強く、富士通研究所に在籍しながら阪大理学部でPh.D.を取得し、故あって富士通を退職後、モリテックスでバイオ事業をけん引していた山田を頼って合流してきたのです。小川は、多方面に渡って能力を発揮し、レクチンアレイの製造と品質管理のみならず、NEDO先導プロジェクトにおいて、比較糖鎖プロファイリング解析の基本ソフトであるGlycoStation ToolsProの開発も担当しました。産総研で開発をスタートした当初は、汎用のマイクロアレイ用解析ソフトArrayPro Analyzerでスポットの輝度を数値化し、内山氏が作成したエクセルのマクロを用いて比較糖鎖プロファイリング解析を行っていたのですが、ユーザーフレンドリーな解析環境を自前で作り上げたという訳です。齋藤は、NECからのモリテックスへの出向者であり、NEDOのSGプロジェクトの後継プロジェクトで、エンリッチメントデバイスの開発にも従事してもらいました。レクチンアレイと糖鎖プロファイラーの開発で最も苦労した点は、レクチンアレイの製造安定性の確保(スポット形状、飛び散り、バックグラウンドの斑)と品質保証(検品用のプローブの開発、出荷基準の策定、消費期限の確認)、そしてそれらのドキュメント化作業でした。2006年春から産総研からの技術移管作業を開始し、2年間はこれらの業務に忙殺されたと言っても過言ではありません。レクチンアレイと受託解析の立上げでは、「藤田と横田がいなくてはレクチンアレイの製造は困難」と思われるほど彼女らは力を発揮してくれました。特に藤田の残してくれた数多くの詳細なドキュメントは、その後の技術伝承でなくてはならない資産となりましたし、横田の正確な手技が無ければ、あれだけの品質を安定して出すことは出来なかったかもしれません。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(3)」にて・・・・、
いよいよ糖鎖プロファイラー(GSR1200)とレクチンアレイ(LecChip)が上市され、営業活動が始まります。

GlycoStation誕生秘話(1)

GlycoStationとは、レクチンマイクロアレイとエバネッセント波蛍光励起法を用いたスキャナーを組み合わせて比較糖鎖プロファイリング解析を行う糖鎖解析のプラットフォーム技術の登録商標であります。この名称自体は、本ブログ著者(山田雅雄)が、モリテックス・横浜テクニカルセンターのグライコミクス研究所に在籍していた時代に名付けられたものです。そして、レクチンマイクロアレイにはLecChipという商標を獲得し、エバネッセント波蛍光励起法を用いたスキャナーには、GlycoStation Reader 1200(略して、GSR1200)という商品名が付けられました。また、GSR1200については、糖鎖の比較構造解析を非破壊で高精度に行えるという特徴を強調すべく、「糖鎖プロファイラー」という技術名称が冠されました。この技術は、バイオテクノロジーの中では数少ない国産技術として一世を風靡し、GSRは延べ40台以上が製造販売され、日本だけでなく、米国、欧州、東アジアにおいて広く使用されているのです。

この「GlycoStationの誕生秘話」をMxブログ記事として記録しておこうと思い立ちました。

その第一話は、2002年にまで遡り、当時名古屋にあったベンチャー企業である日本レーザー電子(NLE)から話はスタートします。日本レーザー電子は、最盛期には、30名を超える従業員が在籍し、売上高も5億円を超える事業規模を持っていましたが、残念なことに、起業してから約20年後の2004年に経営破綻を迎えてしまいました。日本レーザー電子の社長であった米田勝實氏は、元名城大学理工学部電気工学科の助教授であり、レーザー計測技術を専門としていました。彼が大学を退職し、日本レーザー電子を起業した時の事業内容は、もちろんレーザー計測技術の社会実装です。会社の成長と共に事業分野が拡大され、ナノテク関連製品を加え、更にはバイオテクノロジー関連にも事業分野を広げて行きました。ナノテク関連商品として最も有名なものはオスミュウム(Os)・コーターでしょう。これは電子顕微鏡用のサンプルを真空中でOsを薄くコーティングすることにより、サンプルのチャージアップを防ぎ、高精度に高倍率の電子顕微鏡画像が得られるようにするサンプル前処理装置です。またLB膜(ラングミュア-ブロシェット膜)製造装置も研究開発分野で評判を得ていました。LB膜はご存知のように水面上に展開した単分子膜を基板上に移しとって積層した分子膜であり、当時は半導体にしても超格子構造がいくつか実用化されており、機能分子を積層することで新しい分子デバイスを作り上げようという機運が高かった時期でもありました。そうそう、UVオゾンクリーナーもありました。DNAマイクロアレイの分野では、半導体の製造技術を真似たAffymetrixのGeneChipが2000年当時、すでに世界で圧倒的な強さを発揮していました。DNAマイクロアレイの事業分野の急速な拡大を目にして、日本レーザー電子は日本でいち早くDNAマイクロアレイ事業に参入し、2002年には、すでに5400種類を超えるマウスのcDNAをスポッティングしたDNAマイクロアレイを実用化していました。DNAマイクロアレイの製造には独自の先割れピンを用いたスポッターを自社開発し、大型のStampIIやラボ向けのStampmanというスポッターも自社開発し、マイクロアレイを読み取るためのレーザースキャン型の共焦点スキャナー(Scan II)らも商品に加えていました。バイオテクノロジー分野では、SPR分野にも積極的に進出し、国内ではBiacoreに続く二位のマーケットシェアを獲得していました。

自分が日本レーザー電子に参画したのは、2002年夏のことです。当時の日本レーザー電子は、本社を熱田区に置いていました。本社の入り口を入ると、右側に営業部(営業部長は、奥村秀行氏)があり、左手の鉄製の階段を上って右上(駐車場の上なのだが)に社長室が、左側には会議室や経理部がありました。入り口からの通路は奥深くまで長く長く伸びており、右側にはバイオテック用のクリーンルームやスキャナー開発用の暗室、最深部には理化学機器製造の部屋があり、その二階が技術開発部の居室となっていました。日本レーザー電子には、自分は開発部長として着任しました。前職(富士通株式会社)に比べると環境が全く異なりますし、現場を率いてきた社員たちの個性や能力をつかみ、この部隊をどうまとめ上げていくのがベストかを直感できるようになるまでには少々時間がかかりました。自分は富士通の部長をしていたので、皆さんもそれなりに敬意を払っては下さるのですが、何せよそ者ですし、違和感満載でした(笑)。バイオテクノロジー関連では、中国の医師免許を持つドクター(島田亮氏)や京大農学部卒のドクターもおり、機器開発には優れたノウハウを有する技術者も数名在籍しており、名大工学部卒のドクター(高島成剛氏)もいました。総じて高い技術力を持つ集団であり、正真正銘、新規開拓に挑戦的に挑むベンチャーという印象です。

入社ほどなくして、自分は取締役に昇進し、毎月の経営会議に顔を出す立場となりました。それから1年後には副社長になっていました。転職前に米田社長から聞いていた話とは裏腹に、経営状態は悲惨でした。経営会議は会議というのは名ばかりで正に喧嘩状態、「生きるか死ぬか」という瞬間が今ここにあることを実感します。
「これ売れなかったら、来月給料ないよ」机をたたく音と怒号が響き渡る会議です。
入社してから知ったのですが、日本レーザー電子は自分が入社した時点ですでに債務超過に陥っていたのです。
経理部長からは、
「山田さん、入社前に米田社長から聞いてなかったの?」と言われて返す言葉もありません。
社長から名古屋の料亭でヘッドハンティングを受けて、美しい言葉だけを聞かされて、疑わなかった自分が甘かったのだ、そう思いました。しかし、当時の富士通の半導体事業も迷路に入ってしまっていましたから、どの道、自分は新天地を求めようとしていたのです。

日々の仕事は、取締役兼開発部長として、米田社長のご子息(米田英克氏)と協力して、cDNAマイクロアレイ、多チャンネル型のSPR装置(12ch-SPR)、エバネッセント波蛍光励起型スキャナー(SCAN III)らの開発をリードしつつ、経営者として、最後は副社長として、会社の立て直しのための事業プラン作成と資金調達に奔走していました。新たな事業計画を作ってのVCや銀行からの資金調達、大手企業との事業提携、更には事業売却を組み合わせた生き残り戦略の実践です。米田社長と二人で東京、関西、名古屋を飛び回る日々が続きました。いろいろ差し障りがありそうなので、何処とどういう交渉を行ってきたのかは流石にここではカットしておきたいと思います。とにかく債務超過という現実は、非常に厳しいです。
「すごい、面白い技術ですね、マジ凄いです」
「しかし、この負債の大きさは厳しいですね」
「少し考えさせてください」・・・・・・、そしてすべての交渉がぶっ飛んで行きました。

しかし、何故、日本レーザー電子が債務超過に陥ったのでしょうか?それには幾つかの原因があります。一つは、タンパク質アレイの失敗、cDNAマイクロアレイの伸び悩み、SPRのピークアウト、そしてJSTのA-STEPの失敗でしょう。言い換えれば、多額の開発費を掛けたにも関わらず売れる新製品が生まれず、既存の売上も低迷し、キャッシュアウトしていたということです。この中でも最大の失敗は、A-STEPの事業だろうと思います。とある大学と産学連携で開発してきた技術なのですが、完成した頃には、技術的に競合するAFMの台頭に優位性を完全に失い、AFM関連マーケットを完全に失ってしまったのです。それにも関わらず、ともあれ技術は完成したんだからと成功のレッテルを貼られ、2億円を超える開発費が借金として丸ごと日本レーザー電子に降りかかったのです。これがなければ債務超過にはならなかったのではと思います。

そんな中、2002年末に、自分にとって大きな転機が訪れました。なんと、日本レーザー電子に入社して半年も経っていません(笑)。ひとつは鹿児島大理学部の隅田先生との出会いであり、もうひとつは産総研の平林先生との出会い、そして最後のひとつはモリテックスとの出会いでありました。隅田先生とは糖鎖アレイ、平林先生とはレクチンアレイ、そしてモリテックスは事業買収につながる案件でした。
激動の2003年が過ぎ去り、万策尽きて2004年春にはNLEは倒産することになるのですが、日本レーザー電子は、結局二つのグループに分裂して事業継承を進めることになりました。米田社長と自分らは、モリテックスのバイオテクノロジー関連技術の事業買収に乗っかり名古屋から横浜に転居することとなり、英克氏らは株式会社竹代の支援を得てナノテクノロジー関連と受託サービス関連を継承して名古屋に残るのです。後者が現在の受託解析サービスを主力事業とするフィルジェン㈱です。そして、日本レーザー電子で埋もれていた「SCAN III」が、糖鎖とレクチンという新世界でモリテックスから新たな装いと仕様変更を受け、国産独自技術「GSR1200」として花を開かせることになるのです。

会社が倒産して皆が散り散りばらばらになる悲哀は、例えようがないくらい辛いです。社長が社員の親睦会のためにと取ってあった20万円で、会社の屋上に皆が集合して、あわびや伊勢海老といった極上食材を肴にバーベキューをして別れを惜しんだあの日の思い出、これは消え去ることはありません。社長は飲みすぎて転んで頭から血を流しました(笑)。富士通を退職しての自分の再出発は、僅か1年半で再出発を余儀なくされたのです。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(2)」にて・・・・、

LecChip(レクチンマイクロアレイ)のデータを用いてDeep Learningで糖鎖の構造や細胞種などを機械学習を行わせる時の環境構築とPython Script例

LecChip(レクチンマイクロアレイ)のデータを使用して、糖鎖の構造、細胞種などを判別させるためには、Deep Learningを使用して沢山のデータを機械学習させる方法が有効です。
これを行う為に必要な事前準備は、以下となります。
Python(以下ではAnaconda3を使用)
Tensorflow
Keras
先ずは、ご自身のパソコンにこれらをインストールして環境構築を行ってください。

このような事前準備の面倒臭さを省き、Deep Learningのネットワーク構成をマウスでのクリック動作だけで出来るようにしたのが弊社製品の「SA/DL Easy」になります。
SA/DL Easyを使うと、環境構築の必要もなく、以下のようなScriptも書かずに、Deep Learningの世界がたやすく使えるようになります。

下記を自身のパソコンで実行される場合には、PythonのScriptを保存したフォルダー内にpathが通っていること、保存した入力データのpath、学習結果とテスト結果が保存されているフォルダーのpathなどを間違えないように指定してください。

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# LecChipのデータを使って、例えば、糖鎖の構造や細胞種の判断を学習させるためのDeep Learning Python Script例

from __future__ import print_function
import numpy as np
import csv
import pandas
from keras.datasets import mnist
from keras.models import Sequential
from keras.layers.core import Dense, Dropout, Activation
from keras.optimizers import RMSprop
from keras.utils import np_utils
from make_tensorboard import make_tensorboard

np.random.seed(1671) # 再現性を良くするために

# ニューラルネットワークの構成と学習のさせ方
NB_EPOCH = 100 # 何回学習させるか、適当に決めてください
BATCH_SIZE = 2  # データセットを幾つかのサブセットに分ける
VERBOSE = 1
NB_CLASSES = 2 # 最終的な出力数
OPTIMIZER = RMSprop() # オプティマイザー
N_HIDDEN = 45  # 隠れ層のノード数、ここではLecChipのレクチン数に合わせて45としている
VALIDATION_SPLIT = 0.2 # 学習データの内、何割をテストデータとして使うか
DROPOUT = 0.3
LECTINS = 45

def drop(df):
return df[pandas.to_numeric(df.iloc[:, 2], errors=’coerce’).notnull()]

# データは最大値を1とするように規格化する
def normalize_column(d):
dmax = np.max(d)
dmin = np.min(d)
return (np.log10(d + 1.0) – np.log10(dmin + 1.0)) / \
(np.log10(dmax + 1.0) – np.log10(dmin + 1.0))

def normalize(data):
return np.apply_along_axis(normalize_column, 0, data)

# 入力するデータはCSVファイルの形式とする
df1 = drop(pandas.read_csv(r’c:\Users\Masao\Anaconda3\DL_scripts\cell.csv’)).reset_index(drop=True)
X_train = normalize(df1.iloc[:, 2:].astype(np.float64))
family_column = df1.iloc[:, 1]
family_list = sorted(list(set(family_column)))
Y_train = np.array([family_list.index(f) for f in family_column])

df2 = drop(pandas.read_csv(r’c:\Users\Masao\Anaconda3\DL_scripts\cell_test.csv’)).reset_index(drop=True)
X_test = normalize(df2.iloc[:, 2:].astype(np.float64))
familyt_column = df2.iloc[:, 1]
familyt_list = sorted(list(set(familyt_column)))
Y_test = np.array([familyt_list.index(f) for f in familyt_column])

print(X_train.shape[0], ‘train samples’)
print(X_test.shape[0], ‘test samples’)

# convert class vectors to binary class matrices
Y_train = np_utils.to_categorical(Y_train, NB_CLASSES)
Y_test = np_utils.to_categorical(Y_test, NB_CLASSES)

print(X_train)
print(Y_train)
print(X_test)
print(Y_test)

# ニューラルネットワークの具体的な構成例
# 隠れ層は2層
# 入力はLecChipのデータ(45レクチンを使用)
# 最終層はsoftmaxで活性化

model = Sequential()
model.add(Dense(N_HIDDEN, input_shape=(LECTINS,)))
model.add(Activation(‘relu’))
model.add(Dropout(DROPOUT))
model.add(Dense(N_HIDDEN))
model.add(Activation(‘relu’))
model.add(Dropout(DROPOUT))
model.add(Dense(NB_CLASSES))
model.add(Activation(‘softmax’))
model.summary()

# 学習とテスト結果状況をTensorboardに出力して可視化させる
callbacks = [make_tensorboard(set_dir_name=’Glycan_Profile’)]

model.compile(loss=’categorical_crossentropy’,
optimizer=OPTIMIZER,
metrics=[‘accuracy’])

model.fit(X_train, Y_train,
batch_size=BATCH_SIZE, epochs=NB_EPOCH,
callbacks=callbacks,
verbose=VERBOSE, validation_split=VALIDATION_SPLIT)

score = model.evaluate(X_test, Y_test, verbose=VERBOSE)
print(“\nTest score:”, score[0])
print(‘Test accuracy:’, score[1])

————————————————————————————
# Tensorboardを使うためのPython Script

# -*- coding: utf-8 -*-
from __future__ import absolute_import
from __future__ import unicode_literals
from time import gmtime, strftime
from keras.callbacks import TensorBoard
import os

def make_tensorboard(set_dir_name=”):
ymdt = strftime(“%a_%d_%b_%Y_%H_%M_%S”, gmtime())
directory_name = ymdt
log_dir = set_dir_name + ‘_’ + directory_name
os.mkdir(log_dir)
tensorboard = TensorBoard(log_dir=log_dir, write_graph=True, )
return tensorboard

————————————————————————————
Tensorboardを用いて可視化させるには、make_tensorboard.pyを走らせたうえで、
$ tensorboard –logdir=./Glycan_Profile_Mon_10_Feb_2025_23_06_26(./データが記録されているフォルダー)を走らせ
http://localhost:6006/にアクセスします。

(base) PS C:\Users\masao\Anaconda3\DL_Scripts> python make_tensorboard.py
Using TensorFlow backend.
(base) PS C:\Users\masao\Anaconda3\DL_Scripts> tensorboard –logdir=./Glycan_Profile_Mon_10_Feb_2025_23_06_26
Serving TensorBoard on localhost; to expose to the network, use a proxy or pass –bind_all
TensorBoard 2.0.2 at http://localhost:6006/ (Press CTRL+C to quit)

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LecChipのデータは、下記のようなCSV形式とします。
左端から、サンプル名、ファミリー名(教師データとなります)、各種レクチンの数値が並んでいます。

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学習が終わったら、モデルの保存をしておくべきでしょう。
モデルが保存してあれば復元もできますし、未知データを与えて予測させることが出来ます。
この辺りのScriptは別途書くことにします。

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