アーカイブ: 2025年2月26日

GlycoStation誕生秘話(番外編:Europe)

欧州の市場開拓には、BioEuropeというバイオテクノロジーの展示会を良く使用しました。BioEuropeは、春と秋、年に2回場所を変えて開催されます。

グライコテクニカにとっては、Frankfurtで開催されたBioEurope2014とMunichで開催されたBioEurope2015というのはある意味大きなマイルストーンになっています。BioEurope2014では、オーストリアのウイーンにあるBiomedicaとVela Laboratories、フランスのオルレアンにあるGLYcoDiagとの運命的な出会いがあり、翌年にはBiomedicaとGLYcoDiagが欧州におけるグライコテクニカの代理店となりました。そして、Biomedicaの協力にて、Vela Laboratories内に「糖鎖プロファイリングの受託解析センター」が開設されました。

BioEurope2015では、GlycoStationとともに、iPS細胞用の培地「SODATT」を新商品として展示しました。この商品は、iPS細胞用の既存培地(StemFitなど)に対して、コスト競争力に焦点を当てて開発したiPS細胞用培地であり、Serum-free、Xeno-free、b-FGF/TGFβ-freeをキャッチコピーとしていました。本商品開発は、京大iCeMSからのライセンスを得て進めたものです。

残念ながら、本商品はiPS細胞の多能性維持という観点で不安定性があることが判明し、成功には至らなかったのですが、グライコテクニカの新商品開発という視点では一つのエポックメイキングな出来事となっています。

(Eden Noelが歌う)

なお、グライコテクニカの培地関連のビジネスは、合同会社エムックにて継承発展させており、iPS細胞用培地こそないものの、間葉系幹細胞用培地、EC細胞用培地、肝細胞用培地、上皮細胞用培地、間葉系間質細胞用培地、線維芽細胞用培地などが製造販売されています。

GlycoStation誕生秘話(番外編:精神安定剤)

社長の精神的な辛さというのは、経験してみないとなかなかピンと来ないものです。「今のやりかたのままで会社大丈夫かな?」大問題が発生したりすると寝れない夜が続いたりもします。

ある時、廣瀬が自分に教えてくれました。「高畠さん、山田さんが会社に居てくれるだけで安心剤らしいです」「え?そんなこと言ってた?」と自分は答えました。廣瀬は、もともと自分のモリテックス時代の友であり、竜野部長の下で営業アシスタントをしていました。彼女がモリテックスを退職するときに「山田さん、将来縁があったら、声かけてね」と頼まれていました。退職後、彼女が自助努力で簿記の資格を取っていたらしいことも聞いていました。そこで、GPバイオサイエンスを起業したときに経理担当が居なかったので、廣瀬のことを思い出して、高畠に「経理ができるいい人が居るんだけど紹介させてくれませんか?」と廣瀬のことを頼んでみました。江田駅近くにあるコメダ珈琲店で高畠夫妻に廣瀬を紹介しました。高畠は一目見るなり気に入ったようで、その場で採用されました。高畠は、「廣瀬の美貌に惚れた」のだと思います。

そんな成り行きで、廣瀬はGPバイオサイエンスとグライコテクニカにおいて経理担当として高畠から絶大な信頼を得ていました。高畠が憔悴している時に、彼女にぽろっと「自分の弱音」を話たんだと思います。それが「山田さんが居てくれるだけで安心剤なんだよね」という言葉だったのでしょう。高畠と自分の根底には確執があるのは間違いないのですが、困ったときに、「ブレない山田」が居てくれることが高畠には救いだったのだと思います。

2018年は非常に忙しく大変な年でした。AMEDから「再生医療等製品(脂肪細胞医薬品)の糖鎖プロファイリングを用いた品質管理システムの構築」という委託研究をもらっていたし、GLIの買収劇がありましたし、高畠の無駄にデカいお誕生日会もありました。個人的にもこの夏には愛犬のふうを無くし、11月には父親が他界しました。

同年9月のことです、「山田さんと一緒に海外出張するのもこれが最後かもしれないし、スイスアルプスを一緒に旅行しないか?」唐突に高畠がそう言ってきました。チューリッヒの空港でおりて、レンタカーを借り、高畠が自身で運転してスイスのGrindelwaldへ連れて行ってくれました。途中、高畠が車のタイヤを縁石にこすってパンクさせるというトラブルが発生したのですが、ともあれその日の内に何とかGrindelwaldに着くことが出来ました。高畠は「東芝時代に、お客様の接待で、ここに何回もきたんだよね、ここを山田さんに見せてあげたかったんだよ」と言いました。この時ばかりは、「この一瞬だけは」、確執は融解していたかも知れません。

(アイガー北壁が見えて来た、美しすぎる)

 2020年の10月、自分はグライコテクニカを退職し、「Mx:エムック」という事業体を桑名という地に登記しました。グライコテクニカの最期が近づいてきていることを感じていました。しかし、完全にグライコテクニカと縁を切った訳ではありません、同社の顧問となっていました。

そして、高畠と最後のお別れの挨拶をしたのは、2021年9月3日、湯河原温泉でのことでした。グライコテクニカが倒産する約1年前のことです。「高畠さん、今度いつ会えるか分かりませんが、どうぞお元気でお過ごしください」と言って別れました。そして、残念ながら、二度と彼に会うチャンスは訪れませんでした。「高畠さんが亡くなった」というニュースを聞いたのです。

(2014年6月、高畠夫妻との真鶴での思い出バーベキュー、グライコテクニカが平穏だった時代の追憶から)

GlycoStation誕生秘話(番外編:GLI)

GLIとは、Glycobiomarker Leading Innovationsの略にて、産総研発のベンチャー企業です。社長には、産総研出身の竹生氏が就任し、取締役には、成松先生、久野先生が名を連ねていました。GLIの基本的な事業内容は疾患糖鎖バイオマーカーの開発であり、診断薬や治療薬に繋がるバイオマーカーを権利化し、それを診断薬や創薬メーカーにライセンスや売却を行うことでの収益化を考えていました。この手の事業モデルでは、長い期間売上を立てることが出来ないので、VCや事業会社から投資資金を入れ続けるしかありません。具体的に何が直接的な原因になったのかは部外者の自分には不明ですが、GLIは、2018年9月に倒産してしまいました。

この一ヵ月程前になるでしょうか、久野先生から「GLIの従業員を何人か引き取れないか?」という相談を受けました。自分は経営者ですので、こう言われれば会社が危険な状態になっていることは直ぐに分かりますし、役員が従業員の行く末を気にして救済の道を探っていることもわかります。久野先生には本当にお世話になっていたので、「1名くらいなら何とかできるかも知れませんが、自分だけでは決められないので高畠社長と相談致します」と言って別れました。


(つくば研究支援センター(TCI)の中にGLIがありました)

早速、このことを高畠夫妻(社長と会長)に伝えました。この時期には、高畠は、GPバイオサイエンスの自己破産に伴う自粛期間をへて、堂々とグライコテクニカ会長を名乗っていました。GPバイオサイエンスを倒産に追い込んだ「あの経営スタイル」がグライコテクニカに舞い戻って来ていたのです。なんて運命ってこれほどにも皮肉なんでしょう。2018年4月から1年間の計画で、自分は成育医療研究センター、ロート製薬とタッグを組んだ大型のAMED助成金を獲得することに成功していました。「再生医療等製品(脂肪細胞医薬品)の糖鎖プロファイリングを用いた品質管理システムの構築」という委託研究開発事業です。総予算は、5,200万円でした。この潤沢な資金があったことが高畠を狂わせたのです。「それ、売上でなく、委託研究開発費だよ、分かってんの?」高畠は「自分が安く、GLIを買収してやろう」と言い出しました。オーナー会社というのは非常に厄介です。上場しているモリテックスでさえも、起業者の森戸会長の影響力は強烈でしたし、それを排除するためには会社をつぶしてしまうくらいの大きなお家騒動が必要なのです。ましてや上場していない企業となると、役員とは名ばかりで、オーナーの言うことには逆らえないという雰囲気になってしまいます。当時のグライコテクニカは、VCからの投資金は一切受けず、自己資金と借り入れのみで運営されていましたので、物言う株主がおらず、会長の暴走を止められなかったということです。逆に言えば、VCからお金を入れてしまうと思うようにできなくなるので、借り入れのみにしたということです。

その結果、自分が獲得した多額の委託研究開発資金が、GLIの買収と従業員が増えることによる固定費の増加を補うために使われてしまい、結果、何と1,355万円もの委託研究開発資金が未使用となってしまいました。委託研究開発資金は、計画通りに使用することが鉄則です。万が一未使用分が出た場合には、翌年度の8月末までにそれをAMEDに戻す必要があります。助成金の不正使用などを行ったらその研究者や組織はお終いです。
高畠晴美社長に「助成金は契約通りに使用しなければいけない、目的外使用は厳禁です」、「絶対に未使用分は返済する必要があります」と念を押しました。「しかし、そう言われても返すお金がないの、AMEDに分割支払いに出来ないか聞いてみて欲しいの」こんなことを言いだしました。「なんなんだこの言いぐさ、事の重大さを分かってるのか?これでも社長か?」と思いつつ、社長命令なので仕方ない、AMEDに聞くだけは聞こうと電話をすると、案の定「委託研究開発費は先払いしてあるんだから、未使用が出ても払えないなどと言うことはあり得ない、払えないということは目的外に使用したということですよね、分割なんてできませんよ、予定通り返済してください」と言われてしまいます。

社長は、結局借り入れをして未使用分をAMEDに返済し、とりあえず事なきを得るのですが、会長は「未使用が出るのはお前の計画がおかしいからだ、多額の借金をしなくてはいけなくなったんだぞ、会社の危機だ」と山田に責任転換してきました。「この人どういう神経してんの?」自分ははらわたが煮えくり返りました。「委託研究開発資金が未使用になったのは、お前の目的外使用のせいだろうが」

この買収によって、グライコテクニカの固定費は一気に倍増、しかも売上は従来のグライコテクニカのそれと変わらず、一気にキャッシュフローが悪化していきます。GLIの事業モデルは前記したようにグライコテクニカのそれとは異なるので、売り上げなど急には増えないのです。分かり切った通りなのに、高畠はそんなことももう判断できなくなっていました。GLIを安く買収できたことに喜んでいました。そして、この後、グライコテクニカは坂を転げ落ちるように経営状態が悪化し、2022年8月、グライコテクニカが倒産してしまうのです。


2018年というのは、高畠夫妻にとっては、GPバイオサイエンスからグライコテクニカを通しての栄華のピークだったのかもしれません。高畠会長の無茶盛大なお誕生日会も開かれました。時期を合わせて開催されたこの年の株主総会後には、盛大な野外バーベキュー大会が開かれました。この大宴会には、自分の家内も息子も招待されていました。それはそれで楽しい思い出なのですが、この後、恐ろしい下り坂が待っていたのは上記した通りです。



真鶴オレンジフローラルファームにて、グライコテクニカのBBQ大会)


(無茶嬉しそうな高畠会長、白のジャケットを着用、左の女性はオペラ歌手の三堀美和さん)

(お誕生日会にオペラ歌手のロベルト・ボルトルッツィさんを呼ぶ、散財しすぎだろ)

GlycoStation誕生秘話(番外編:再生医療)

GlycoStationの三大アプリケーションの一つが「再生医療における幹細胞の品質管理」であると考えました。何故ならば「糖鎖は細胞の顔」と呼ばれるくらい細胞の状態に非常に敏感であり、当時既に見つかっていた幹細胞マーカーはすべて糖鎖抗原だったからです(Tra-1-60, Tra-1-81, SSEA-3/4)。

糖鎖に関する研究メッカは世界に幾つかあります。代表的なそれが日本の産総研と米国のCCRCです。しかし、ことレクチンアレイに関しては、産総研が世界のTOPランナーです。NEDOの糖鎖構造解析技術開発プロジェクト(SGプロジェクト)の後継として、2006年4月にはNEDOの糖鎖機能活用技術開発プロジェクト(MGプロジェクト)が走っていました。この動きの中で、レクチンアレイの応用のひとつとして幹細胞が取り上げられており、MGプロジェクトのメンバーである成育医療センターの梅澤先生らが、間葉系幹細胞やES細胞を用いてその先駆的な研究を進めていました。この動きは、2007年10月に発足したNEDO先導研究(糖鎖プロファイリングによる幹細胞群の品質管理、安全評価システムの研究開発:TRプロジェクト)として発展し、2009年4月にはNEDO iPS等幹細胞産業応用技術開発プロジェクトがスタートしています。2010年4月には、産総研に幹細胞工学研究センター(センター長は浅島先生)という組織も出来上がっていました。山中先生によるiPS細胞の発明が2006年8月ですから、この偉大な発明がこれらの動きの後押しとなったことは言うまでもありません。

そして、レクチンアレイを用いた幹細胞評価を全世界の潮流とすべく、2009年7月にバルセロナで開催されたISSCR2009において、梅澤先生らの「レクチンアレイの間葉系幹細胞への応用に関する研究」が発表されました。この研究発表をサポートする形で、GPバイオサイエンスは単独でISSCR2009に展示ブースを設けてGlycoStationの再生医療分野向けの販促活動を開始しました。この年の9月には、幹細胞マーカーの世界的権威であるエジンバラ大のPeter Andrews先生を梅澤先生とともに訪問し、レクチンアレイを用いた幹細胞評価の共同研究を打診しました。


(ISSCR2009:デカい顔しすぎの説明員、説明員は立っているものだ!)

(ISSCR2009: 控えめな展示者、永富)

米国については、まずはScrippsのJeanne Loaring先生に白羽の矢を立てて販促活動を開始しました。自分がJeanneを訪問した時には、彼女の研究の主眼はiPS細胞のエピジェネティックスでありました。京大CiRAの山中先生とも既に共同研究を開始しているようでした。「あら、先週はShinyaが来てたのよ」「糖鎖って、研究してないし私は分からないけど、面白そうね、やってみるわ」って話になってポスドクを研究担当に指名してくれました。当時、ScrippsのJames Paulson先生のラボにGSR1200を貸し出してありましたので、LecChipを購入してもらって、PaulsonラボのGSR1200を使ってもらうことにしました。


(Scripps:Center for Regenerative Medicine、左下に腰かけている小川がいる)

それから少し後にJeanneを再訪問すると「Masao、すごい、GlycoStationですべての幹細胞を一つの間違いもなく分類・同定できたよ」「直ぐに論文を書く、三カ月以内に必ず書く」って興奮し切った様子で話してくれました。評価したiPS細胞の中には、京大CiRAで樹立した株も含まれていました。つまりScrippsと京大CiRAの共同研究だったわけです。自分もうれしくなって帰国したのですが、それから三カ月後、Jeanneから予想だにしない「怒りのメールと電話」が来たのです。
「Masao、論文をCellに投稿したら、似たような論文が既にあるからRejectする、って言われた」「どうなってんのよ、他にも同じようなことをやらせてるんなら、先に言いなさいよ」頭から湯気が出ているのが見える様でした。CiRAからも同じようなクレームを受ける羽目になりました。
「え?だって最初に訪問してGlycoStationの話を説明したときには、ISSCR2009のポスター発表を使ったし、他に同じようなことをやってるところがあるのは分かってたはずでしょ」って口から出そうになったのですが「火に油を注いでしまうので」グッとこらえました。不味かったのは、Jeanneの論文に対する先行論文に自分の名前が入っていたことです。自分の名前が著者に無ければ、「え?そんな論文が投稿されてたなんて、自分は全く知りませんでした」ととぼけられます。
その論文は、「Lectin microarray analysis of pluripotent and multipotent stem cells」です。成育医療センターと産総研の共同執筆論文でした。そして、著者の中に山田と小川が含まれていたのです。この論文が出版されたのは2011年1月のことです。恐らく、論文を投稿したのは少しの時間差だったろうと思います。査読者がJeanneとShinyaの論文をRejectしたというのは行き過ぎのように思います。ノーベル賞競争でも、論文投稿の時間差で敗北したっていう話は山ほどあります。論文が誤ってるならまだしも、Rejectはやりすぎだと思います。だってとても素晴らしい論文だったのですから。その背景には、研究者間の競争が強く働いていたような気が自分にはします(あくまで自分の想像です)。

Jeanneらの論文は、それから遅れて2011年6月にランクの少し下がったOpenジャーナルから出版されました。
その論文は「Possible linkages between the inner and outer cellular states of human induced pluripotent stem cells」 であり、Scrippsと京大CiRAとの共同研究になっていました。

このドタバタ騒ぎのお蔭で、購入して貰えるはずだったGSR1200は、Scrippsから追い出されてしまい、CiRAの参入障壁もアイガー北壁のようになってしまいました。日本のiPSを中心とする幹細胞研究の予算は、益々CiRAへの一極集中が強まる傾向を示していましたから、GlycoStationの再生医療分野への参入はこれによって息の根を止められたも同然でした。なんて運命って皮肉なんだ!

GlycoStation誕生秘話(9)

EMCCDのディスコンは、本当に悩ましい問題となりました。GSR1200で採用していたEMCCDは、フローベル製で高い性能をリーズナブルな価格で実現できていました。イメージングデバイスは、CCDからCMOSへ世代交代をしており、EMCCDも完全になくなった訳ではないのですが、500万円から700万円といったレベルのEMCCDしか市場には存在しなくなっています。糖鎖プロファイラーの市場で受け入れてもらえる定価から考えると、こんな高価なEMCCDを使うわけには行きません。仕方なく、CMOSデバイスからノイズが少なく、400万画素、ピクセルサイズも6um以上となるようなデバイスを選んできました。

早速GSR1200に仮組してスキャンしてみたところ、全く画像が見えず焦りまくりました。従来のGSR1200では考えられないほどの長時間露光でスキャンしたのですが、何も見えません。いや、よく見ると何か見えているのですが、暗すぎて何も映っていないと勘違いしました。
「これは不味い、不味すぎる」
EMCCDはショットノイズがすごいですが、最大1000倍の増感効果はやはりすごいです。

この問題を解決してGSRにハイエンドにふさわしい性能を持たせるには、光学系を刷新するしかないと考えました。そして感度は高NAのレンズと長時間露光を組み合わせて稼ぐので、スキャン速度も大幅に上げないと目標スペックを満たせません。必要な光学系の基本性能を考えると、以下のような仕様となりました。

  • 等倍無限遠補正光学系
  • 焦点距離=40mm
  • WD=18.5mm
  • NA=0.35
  • 被写体径=Φ17.00mm
  • 光学全長=130mm
  • 歪曲収差=0.1%以下

早速、ありとあらゆる光学メーカーのFAレンズを調べたのですが、上記の性能を満たせるようなレンズが存在しません。
「ああ、そうなんだ、こんな使い方をしている装置はないということだな~~」そう思いました。
「なら、新たに開発するしか手がない」
そう思って、光学メーカー数社にコンタクトしました。
答えは「山田さん、この性能をだそうとすると、半導体の高性能ステッパー並みだし、開発費に億円かかりますよ」
「・・・・・無言・・・・・」

そんな開発費は逆立ちしてもないです。それにそんなに開発費を掛けたら、事業として開発費の回収目途が立たなくなります。そこで、思い切って「自前開発でやることとしました」。レンズを作るには硝材を溶かしてレンズの型に入れ、磨き上げるという作業が必要なので、最終的な試作は委託せざるを得ないのですが、設計さえ出来ていたら格段に安く上げられるはずです。結果として、1本のレンズを50万円程のコストで作ることに成功しました。

以下が世界にふたつとないGTレンズ(GSR2300用)です。この開発費は、産総研の久野先生からの声かけで参加させて頂いた「AMED糖鎖創薬プロジェクト」から捻出できました。
これがなかりせば、GlycoStationは2016年にディスコンの運命となっていたことでしょう。
「ありがとうございました」
「感謝しかありません」


(完成したGTレンズ)

scanned images with digital binning
新機種GSR2300で得られたスキャン画像、Digital binning機能も追加、スキャン時間はこの例では10秒以下と超高速です)

GlycoStation誕生秘話は、これを持って完了と致します。
本GlycoStation誕生秘話を、今は亡き故日本レーザー電子社長)米田勝實氏、故GPバイオサイエンス社長)高畠末明氏の追悼と致します。
全部で9話ありますが、お時間のございます時に全話を読んで頂けると有難いと思っています。この全9話は、ゲームで言えばメインクエストでして、サブクエスト的な秘話も沢山あります。本GlycoStation誕生秘話の番外編を今後三日間にわたってお届けします。番外編:再生医療、番外編:GLI、そして番外編:精神安定剤、の予定です。

 

今日現在、GlycoStationは、合同会社エムック(emukk LLC)にて生き続けています。合同会社エムックは、GlycoStationとLecChipをご愛顧して下さるお客様がいらっしゃる限り、共に歩ませて頂くつもりです。今後とも変わらぬご支援とご愛顧をお願い申し上げます。

GlycoStation誕生秘話(8)

GPバイオサイエンスは、2012年7月31日に事業活動を停止し、最後まで残っていた全従業員を解雇しました。これを単に破産で済ませてしまえば、ご愛顧頂いているお客様に多大なご迷惑を掛けることになりますし、糖鎖プロファイラーもLecChipも何処かに事業移管されることもなく、製造ノウハウごとすべてが消え去ってしまいます。

GlycoStation事業を継続させるためには、なくてはならない最小限の人材をとにかく引き留める必要性がありました。山田を技術統括としてハード担当の坂下、それにウェット担当の横田、最低限この3人が居れば技術は継承していけると確信していました。自分は、小川と藤田にも是非とも残っていてもらいたかったのですが、高畠とはそりが合わず一足先にGPバイオサイエンスを退職してしまっていました。坂下と横田には雇用保険をもらってもらいながら、アルバイトで次の目途が立つまで業務支援してもらうという作戦を取りました。「何を持って目途が立つまでというか?これが示せなければ彼らの転職活動を止めることは出来ません。」自分は経営者サイドですから雇用保険に入っておらず、年金がもらえる歳にもなっていなかったので、収入がまったくなくなってしまっていました。

高畠が言いました「自分に任せてほしい、良い案がある、最後まで残ってくれた君たちには決して悪いようにはしない」。役員報酬は、半年ほど前からから支払われなくなっており、永富も既に出勤はしていませんでした。残っていた役員は、高畠と山田の二人です。何と因果な関係なのでしょう・・・。
「分かりました」そう答えました。
こうなっては高畠も自己破産は免れません。
「そこまでおっしゃるなら最後は好きにしてください、高畠さんに任せます」

こんなスキームでした。
新しい受け皿会社を年末までに用意します。
新会社が皆を雇用し、新会社はGPバイオサイエンスから業務委託を受けることで、雇用した従業員を養うに必要な最低限の利益を確保します。
GPバイオサイエンスは極限まで減らした固定費と必要な返済を支払えるだけの収入をこの業務委託から得ます。
GPバイオサイエンスがどうあがいても支払いが立ち行かなくなれば、裁判所に破産申請を行うしか残された方法はありません。
そして、新会社が破産管財人から事業を買い取ります。

こうやって立ち上がった新会社がグライコテクニカです。蓋を開けてみると、なんと高畠の奥様が社長に就任するという案でした。というのも奥様が持っていた休眠会社を起こしての名称変更が高畠の良い案だったのです。「そうきましたか・・・・・」。グライコテクニカの取締役には、高畠晴美氏を社長として、堤、そして山田が就任しました。堤氏は、高畠のアマシャム時代の旧友です。そして、高畠末明社長はGPバイオサイエンスの倒産とともに自己破産をしました。

従業員は、経理担当の廣瀬氏(女性)、技術者として坂下、横田の3名のみとなりました。廣瀬は、山田のモリテックス時代の旧友です。ずいぶんと小ぶりになりましたが、これで十分回せます。物には適正サイズというのがあります。許容されるマーケットサイズを超えて会社を大きくしたら立ち行かないのは目に見えています。簡単な理です。会社が「大きいから偉い」、「小さいからダメ」、そういう見方は間違いです。自然界ではいろいろな動物や植物や細菌が住み分けをしていて全体調和を作り上げています。其々に存在意味があり、其々に役割があるのです。人間社会も同じです。ようやく平穏な日々が訪れました。この平穏な日々は五年間ほど続きました、自己破産で自粛していた高畠が前面に堂々と出てくる前までのことです。表立って復帰した高畠の無謀な会社規模の拡大と見栄が、この後ふたたびこの会社を窮地に追い込んで行きました。「何故学習しないのだろう?」



(グライコテクニカの事務所と実験室の様子、ここに引っ越す前までは、事業所はモリテックスの横浜テクニカルセンター内にあり、本社はあざみ野にあるマンションの一室でした)

ともあれ、新しく発足したグライコテクニカの門出をFDAが後押ししてくれました。FDAからの商談は、GPバイオサイエンスの終期に受けていたのですが、対応できずに、この新会社で刈り取ることが出来ました。バイオ医薬品として急成長していたバイオシミラーの糖鎖解析法として、GlycoStation(GSR1200とLecChip)が評価されることになったのです。
「とうとうFDAがお客さんになった・・・・」

FDAへの納入に成功したGSR1200でしたが、先行きに真っ黒な暗雲が立ち込めてきました。というのも、使用していたEMCCDに使われている半導体チップ(TI製造)が製造中止になるというニュースが入って来たからです。ハードを長期間にわたって維持するのは非常に大変です。部品のディスコンは頻繁に起こりますし、それに合わせて同じ性能を持たすべく再設計が必要になるからです。主要部品がディスコンしたりするとハードそのものをディスコンにせざるを得ない場合も出てきます。主要部品のEMCCDがディスコン・・・・、最悪の事態です。インフォビが製造販売していた光絶縁入出力基板がディスコンした時も焦りました。しかしこの時は幸いにも回路図が基板についていたので、芙蓉電機の協力をえて、ディスコンした基板の作成が可能になりました。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(9)」にて・・・・、
ひょっとしたらGlycoStationを続けられないかもしれない、そんな焦燥感が襲い掛かってきました・・・・

GlycoStation誕生秘話(7)

2007年にモリテックスからGlycoStationを上市以来、年間平均5回の海外出張で世界中に販促活動を行っていました。1回出張に行くと2週間以上、1ヵ月近くは帰ってこない、そんな感じでした。GPバイオサイエンスになってからも同様なペースで海外のマーケット開拓の活動を維持していました。GlycoStation誕生秘話(7)は、趣を変えて、写真集で海外販促活動の一端をお伝えしたいと思います。

(グライコミクス研時代に作成した販促用のビデオです)

ProcogniaにGSR1200を設置する
高畠の右側は、Procognia社長のAlon Natanson、左は技術のTOP(名前忘れました)、地中海に沈む夕日を眺めつつ懇親会(2009年8月)

BioPolice(シンガポールのワン・ノースに位置する国際的なバイオメディカル分野の研究開発拠点)にあるNovartis(熱帯病研究、ウイルスと糖鎖関連)を訪問(2009年9月)

エジンバラ大学のProf. Peter Andrewsを梅澤先生とともに訪問、Peter Andrewsは幹細胞マーカー(Tra-1-60やSSEA-4など)の世界的権威であり、再生医療分野への参入のきっかけ作りに幹細胞の糖鎖プロファイリング研究を推奨(2009年9月)

その後、フランクフルトにあるDRK赤十字(輸血と糖鎖)を訪問、BaselにあるNovartis(癌治療)を訪問(2009年9月)

韓国代理店(InSung Chroma-Tech)のYoon社長のお力を得るべくソウルへ(2010年5月)

香港大学医学部を訪問、インフルエンザ・ウイルス研究にて糖鎖アレイの要望を受ける(2010年5月)

San Fransicoで開催されたBio2010では展示会に合わせてナパバレー・ワイナリートレインツアーを企画し、山田がツアーコンダクターを務める(2010年6月)

そのまま欧州へ飛んでKarolinska研究所内の創薬ベンチャーを訪問、UCL癌センターを訪問(2010年6月)

インドのバラナシ―ヒンズー大学を浅島先生のかばん持ちで訪問、学会の併設展示を行う、ガンジス川で沐浴し、将来のインド進出を祈願(2010年10月)

Milanoで開催されたBioEuro2011に北海道グループからブース展示、右から3人目はイーベックの土井社長でその左隣に山田がいる(2011年3月)

Philadelphiaで開催されたBio2011にブース展示(2011年6月)

Bio2011で知り合ったGoda & Assciatesの合田社長とNIH, FDAを訪問、GlycoStationの技術説明を行う(2012年10月)
そしてその翌年、2013年10月に、GSR1200がFDAに設置される

しかし、GPバイオサイエンスは、設立後わずか3年5カ月(2012年7月末)で事業停止状態に陥り、2013年3月末には破産申請を北海道地方裁判所に提出することになりました。
GPバイオサイエンスの軌跡については、既に別のページに概略がアップされているので、そのリンクを参照ください

この続きは「GlycoStation誕生秘話(8)」にて・・・・、
またまた新たな苦悩が始まりました、避けたかった二度目の会社倒産

GlycoStation誕生秘話(6)

GPバイオサイエンスと産総研の間に隙間風が吹いてきた。この感じは、徐々に現実味を帯びてきます。GPバイオサイエンスの代表である高畠が産総研の先生方にご挨拶出来ない日々が続いていました。これには理由がない訳ではないので「だよね!」としか言いようがありません。前回までのGlycoStation誕生秘話をお読みになっている人にはお分かりになるはずです。

モリテックスがショットに買収されて、グライコミクス研究所がスピンアウトしてGPバイオサイエンスを起業した時に、日本レーザー電子以来のパートナーであった奥村は、GPバイオサイエンスには参加せず、モリテックスを退職して、隆祥産業に就職していました。隆祥産業とは、今のレグザムのことであり、2010年に社名を隆祥産業からレグザムに変更しています。その隆祥産業に、何と産総研の平林研でモリテックスとともにレクチンアレイを開発した内山氏が転籍していたのです。こんな奇遇ってそうそうあるものではありません。背後に筋書きがあることを自分は瞬時に感じ取りました。穿った見方かも知れませんが、恐らく産総研はイスラエルとつながった小さなベンチャーGPバイオサイエンスに不安を感じ、せっかく開発した糖鎖プロファイラーとレクチンアレイが無くなってしまうリスクを恐れて、安心できるセカンドベンダーを育てようと考えたのだと思います。隆祥産業は、香川県高松市にあります。そして香川大には希少糖やガレクチンの研究で著名な研究者もいました。「匂う匂う、見えない糸が・・・繋がっている?」自分はそう思いました。

GPバイオサイエンスでは、GSR1200は高性能でとても良いのですが、2000万円を超える定価というのがお客様の懐に優しくはなく、普及版を開発しないと行けない、と当時考えていました。こうなったら、その普及機をレグザムと共同開発してはどうか?「物事がこんがらがる前に何とかしないと不味い」そう思った自分は奥村と連絡を取り合い、ふたりは意気投合してGPバイオサイエンスとレグザムの接点作りを開始します。2010年10月には、GPバイオサイエンスとレグザムの技術交流会がレグザム本社にて開催されました。GPバイオサイエンスからの出席者は、山田と坂下です。坂下氏は、元ソニーグループに居た技術者であり、金子がGPバイオサイエンスに転籍しなかったことから、ハードの担当としてGPバイオサイエンスで新たに雇用した技術者でした。そして、2011年5月には、GSR1200の普及機の共同開発に向けて秘密保持契約を締結することに成功します。後に坂下はうつ病を発症し、脱落していくことになります。

次世代機というか、普及機の仕様は、両社で作り上げました。簡単に言うならば、解像度を犠牲にしてスキャン速度を速め、ステージや励起光源を簡略化し、部品点数を減らして、小型化と低価格化を同時に実現するというものです。完成した普及機の名前が、「Bio-REX Scan 200」です。これはレグザムから販売される糖鎖プロファイラーの名称であり、GPバイオサイエンスから販売されるそれには「GlycoLite 2100」という名称がつけられました。名称と外観はそれぞれに異なるのですが、実は中身は全く同じです。GPバイオサイエンスからは、このGlycoLite 2100を定価=850万円で売り出すことにしました。名前と外観こそ違えどスペックが同じということでは、レグザム機とGPバイオサイエンス機が市場で完全にバッティングしてしまうことが目に見えています。レグザムの事業の基本はOEMです。ダイキンのエアコンのように、中身はレグザムでもブランドはダイキン、そういう戦略を糖鎖プロファイラーに対してもレグザムが取れれば何も問題がなかったと思います。しかし、レグザムは自社ブランドでこの商品を販売するという主張を頑なに曲げませんでした。糖鎖のマーケットサイズを良く知る山田と奥村は、こんなことで喧嘩しても始まらない、両機の定価を合わせ、営業テリトリーを棲み分けるなどの手段を駆使すれば、最良な関係ではないけれどもWin-Winの関係を作れるに違いないと話をしていました。そして山田と奥村は、機が熟したところで、レグザム副社長と高畠社長がレグザム本社で会する契約書の調印式を設定しました。

シャンシャンと手拍子で終わるはずだったその日、高畠が唐突に怒り出して調印式は決裂、レグザム副社長は憤慨して、山田と高畠はレグザムから追い出される羽目になりました。レグザムでは、来社されたお客様にレグザム製のさぬきビールをお土産に、関係者全員が玄関に並んでお客様をお見送りするというのが恒例なのですが、奥村曰く、「土産もなく、お見送りもなく、追い出されたのはこれが初めて」という「レグザム始まって以来の珍事」でした。「やべ~~、帰りのタクシーの中では、自分も高畠も無言でした、話をする気もありませんでした」
「あ~~、終わったな~~、そう思いました」

高畠が何を恐れて調印式をぶち壊したのか?今となっては知る由もありません。自分と高畠の間には正直言って確執がありました。特許戦争から始まった喧嘩相手の関係です。男と女じゃあるまいし、喧嘩で始まった男同士が打ち解けるはずもありません。高畠は見栄っ張りで他人の意見を聞きません、これに正論でぶち当たる自分が彼に受け入れられるはずもありません。実例を上げるとピンと来るかもしれません。山田がレグザムと高松で会議するときには、高畠は女性の「かばん持ち」を必ずつけるのです。このかばん持ちが何をするか?自分が会社に出張報告する内容が「一字一句間違いがなかったか」をそのかばん持ちに裏で報告させるのです。
「こんな嫌がらせあります?」「かばん持ちが山田を見る目が心苦しそうでした」
「自分が守りたかったのは高畠のGPバイオサイエンスではなく、自分達が作り上げたGlycoStationという技術体系とお客様と、そして苦楽を共にしたグライコミクス研の仲間だったのです。」


(GPバイオサイエンスブランドのGlycoLite 2100、しかし実は中身はレグザムブランドのBio-REX Scan 200とまったく同じです)

しかし、自分は技術屋としてBio-REX Scan 200(GlycoLite 2100)を手放しで良くできましたと褒めていたわけではありません。GSR1200をハイエンド機とすれば、その半額以下の価格で普及機だから「しゃあないか?それにしても・・・・」という感じで見ていました。GlycoLite 2100があるからGSR1200は用済みだ、とはならないと考えていたということです。GlycoLite 2100のどこが駄目だったのか?具体的な例をお見せしましょう。下図において、左側がGSR1200の面内輝度分布であり、5%以内に綺麗に制御されています。それに対してGlycoLite 2100(Bio-REX San 200)のそれは右側ですが、何と面内の斑が40%を超えているのです。これが何を意味するか?信号強度の小さなレクチンは全く信用できません。そしてその原因は光学系の設計に問題があること、Backgroundの補正ソフトがまったく不完全であることを意味しています。


(GSR1200とBio-REX Scan 200のBackgroundの斑には雲泥の差がある)

この続きは「GlycoStation誕生秘話(7)」にて・・・・、
海外販促の様子をお見せできればと思います・・・・

(余談:山田は後に、坂下の後継技術者となる山根とともに、GlycoSuperLiete(GSL)を開発します。本機は定価が385万円と圧倒的な低価格を実現できており、しかも世界最速の糖鎖プロファイラーとなります)

GlycoStation誕生秘話(5)

世界でいち早くレクチンマイクロアレイの商業化を進めた事業体が実は二カ所あったのです。一つは日本、そしてもう一つはイスラエル。日本とイスラエルって繋がりがあるのかしら?日本のそれはモリテックスのグライコミクス研究所であり、イスラエルのそれはProcogniaでした。それぞれに商標を持っており、モリテックスが「GlycoStation」、そしてProcogniaが「GlycoScope」です。

特許紛争とモリテックスの内紛で万策尽きた自分は、「Procogniaとの和解しか道はない」と思い始めました。そして、2008年11月、グライコミクス研究所の代表者(山田と小川)、そしてProcogniaの代表者(Ron Long, Alon Natanson, 高畠末明)がロンドンに集結し、和解に向けての話し合いを行いました。本来ならモリテックスの代表者がProcogniaと議論すべきなのに、モリテックスはこのマターをグライコミクス研究所の問題として投げつけてしまっていたのです。モリテックスを買収したショットもグライコミクス研究所の事業を継承しないのですから、致し方ないです。「降りかかる火の粉は自分で払うしかありません。」

「こんな小さな糖鎖のマーケットで睨み合ってもしょうがない、二社で協力して事業開拓をしませんか?」自分はそう問いかけました。そして、議論の末、「二社が協力して新会社を日本に設立すること」で合意したのです。

ところで、高畠末明氏とは何者か?
詳しい経歴は自分も良く知らないのですが、東芝にて発電関連事業の営業として入社直後から海外を活動拠点として活躍し、東芝欧州営業拠点の社長を務めていたようです。しかし、40代で東芝を退職し、アマシャムの社外取締役らを経て、個人事業を行っていたようです(ロンドンに在った居酒屋あき(安芸)を経営、Lamerwood G&CCというゴルフ場もあったとか・・)。そしてその傍ら、Procognia会長(Ron Long氏)の協力者としてProcognia Japanの社長も務めていました。Procognia Japanと言っても、実際には彼はロンドン在住であり、Procognia Japanには、取締役の永富佐江子氏1名のみが東京在住だったようです。

Procogniaとの和解交渉が成立後、年が明けて、2009年2月、札幌を本社として「GPバイオサイエンス」が設立されました。設立当初の役員は、高畠、永富、そして山田の3名であり、役員2名がProcogniaからという形になってしまいました。この役員比率(Procognia=2 vs グライコミクス研=1)では、自分の意見を経営に生かすことが難しくなります。更に、高畠は、アマシャム時代の旧友を相談役や営業部長に引き連れてきました。益々、GPバイオサイエンスの意思決定は、高畠が思い通りに動かせる状態になっています。グライコミクス研は、自分以外は、新卒採用の若い技術者ばかりです。

そんな中、永富は高畠に対して「強い不信感」を持っていたこともあり、自分とタッグを組んで高畠に進言をしてくれたのは唯一の救いでした。と言っても、「永富の言うことを高畠は意に介さない」という残念さはあるのですが、ともあれ自分の味方です。その時のよしみから、監査役であった蛭田(信次)氏とともに、永富とは今でも連絡を取り合っています。


(ロンドンの居酒屋あきにて、左から小川、山田、そして高畠の3名)
(年がら年中敵対しているわけではなくて和やかな時もあります)

グライコミクス研究所の所員にとっては、モリテックスからGPバイオサイエンスに移籍するというのは大きな大きな掛だったろうと思います。
「せっかく東証一部の企業に入社できたのに、ベンチャーに行くわけ?」
「給料大丈夫なの?」
「つぶれないの?」
「外資系ってこと?」
「札幌に転勤するわけ?」
自分は、GlycoStationの技術を守り通すために、一生懸命説得を行いました。一緒にGlycoStationを開発する苦労を分かち合った仲間を失いたくはありませんでした。残念ですが金子と阿部はモリテックスに留まると決意し、GPバイオサイエンスに移籍したのは、齋藤、武石、小川、藤田、横田の5名となってしまいました。当面の資金は、北海道ベンチャーキャピタルが支援してくださることになりました。本社は札幌、そして事業所は横浜、グライコミクス研究所が在籍していたモリテックスの横浜テクニカルセンター内に我々の事務所と実験室がそのまま残りました。
日本の技術で糖鎖解析の世界スタンダードを目指す

このようにして、GPバイオサイエンスがともあれスタートしたものの、自分は、GPバイオサイエンスと産総研の成松先生や平林先生との間に「冷たい隙間風」が吹き込み始めていることを感じていました。
「Procogniaが産総研を敵に回してしまっていたこと」
「一部上場企業からベンチャーに移ってしまい、企業の存続性や資金力に疑問がついたこと」
また、新たな問題が吹き荒れそうな気配が忍び寄っていました。

この続きは「GlycoStation誕生秘話(6)」にて・・・・、
新たな競合の出現、高畠と山田の確執・・・・

GlycoStation誕生秘話(4)

モリテックスに入社したのは2004年のことですから、新参者の自分には、モリテックスが抱える影の部分には最初は気が付きませんでした。しかし、部長会に出るようになってからは、森戸会長のお姿も目にするようになり、独特なオーラがその場を支配していることに気が付きました。

具体的にはどんな反目があったのかは自分には定かではありませんが、2006年4月の取締役会で会長解任の緊急動議が発議され、森戸会長が辞任することとなります。これによってモリテックスの内紛が表舞台に上がり、ますますエスカレートしていきます。翌年の2007年6月の株主総会では、モリテックスと事業提携したばかりのIDECが森戸会長側に付き、森田社長らモリテックスの現経営陣との間でプロキシファイトが勃発します。結果的には、IDEC側が負けた形になるのですが、その後「議決権の行使に違法行為があったのではないか」とIDECとモリテックス間の紛争が勃発し、2008年2月の高等裁判所による和解成立までこの紛争がもつれ込みます。そして、この和解によって森田社長が退任し、新たに仁科氏が新社長に就任することになります。
2007年の株主総会と時期を同じくして、モリテックスは、同社の企業価値を上げるものとしてドイツのショットと事業提携契約を結んでいます。この事業提携によってショットの存在感はその後益々強くなり、2008年9月には、ショットがモリテックスにTOBを掛け、過半数を取得して社名もショットモリテックスに変更されます。自分を引き立ててくれた、森田社長も、小谷専務もモリテックスから既に居なくなってしまっています。
穿った見方ですが、新参者の自分からしてみると、この内紛は現経営陣の「モリテックスから会長の影響力をなくしてしまいたい」という思いを遂げるための、第三者(IDEC:会長側、ショット:現経営陣側)の力を借りての闘争劇なのですが、結果としては会長も社長も退任せざるを得なくなり、第三者(ショット)に会社を乗っ取られたということになります。そして、ショットモリテックスの社長には佐藤氏が就任し、岩本氏が取締役として生き残ります。まるで影のフィクサーが居たかのようなどんでん返しです。仁科社長もショットのTOBで短命で終わってしまいました。

一方、グライコミクス研究所の営業活動によってGlycoStationという存在が世界に広まるとともに、2008年にイスラエルの地からとんでもないクレームが舞い込みました。「御社の技術は弊社の特許を侵害している」。同じ特許侵害のクレームは、共同研究先であった産総研糖鎖工学研究センターの成松センター長にも届きます。産総研は学術研究機関であり営利企業ではありません。そんな産総研にまで特許侵害の警告を送り付けてきたのです。その相手とはProcogniaであり、直接的にはProcognia Japanの高畠末明社長と永富佐江子取締役です。特許侵害のクレームを読むと、NEDO SGプロジェクトで三井情報開発が開発した糖鎖構造推定ソフトがやり玉に挙げられているようです。確かにモリテックスからGlycoStationを上市した時には、パンフレットにこのソフトの存在が記載されていました。しかし、レクチンアレイの強さは、糖鎖構造の完全同定ではなく、比較糖鎖プロファイリングでしたから、こんなこともできるよという意味合いで掲載しているだけで、実際の営業活動では全く使用していませんでした。そこで真っ先に行ったのは、パンフレットからこのソフトを抹消することと、そしてProcogniaの出願特許の詳細吟味を行うことでした。特許の文面を読んであきれ返りました。
「なにこれ、こんな抽象的なクレームが許されるわけ?」
というのも、特許のクレームがあまりにも茫漠、何とでも解釈できるクレームだったからです。
こんな特許なら無効申請ができるに違いないとにらんだ我々は、山田、武石、小川の3人で徹底的に過去の関連特許を検索し、「この特許とこの特許の組み合わせにしかすぎず、特許としての新規性も進歩性もない」として「戦えば勝てるに違いない」と判断しました。そして、その報告書をモリテックスの法務部に提出し、Procognia特許の無効申請を行ってくれるように頼みました。

しかし時期が悪すぎました。ちょうど同じ時期に上記したモリテックス事件が勃発していたからです。法務部は会社の一大事としてそちらにエネルギーを取られ、これに加えて特許戦争も行うとなると特許事務所に支払う費用も海外との特許紛争ですから億単位にかさむ可能性があることから自分達のProcognia特許無効申請は捨て置かれることになるのです。

モリテックスもショットに買収され、バイオ事業を引っ張ってくれた森田社長もおらず、自分を引き立ててくれた小谷専務もいません。岩本取締役が唯一の頼りでした。岩本取締役は、ショットのオットマー・エルンスト氏にグライコミクス研究所の事業計画を取り次ぐ労を取って下さり、自分もショットという場でこの技術を育てられれれば「世界に大きく羽ばたけるだろう」と精いっぱいのプレゼンをさせてもらいました。しかし、ショット自体がバイオ系事業を事業ドメインとして据えていないことから、結果は残念ながら不発に終わります。
「グライコミクス研究所は、モリテックス内に居場所を失いました」

事ここに至っては、モリテックス以外に新天地を見つけるしかありません。
「仕方がない、モリテックスをスピンアウトして独立する為のエンジェルを探そう」
何社かのVCや事業会社にグライコミクス研究所の事業計画を説明し、投資のお願いを始めました。この時に大きな足かせになったのがProcogniaとの特許紛争です。
「この特許紛争を抱えたままではリスクが大きすぎて、投資が難しいですね」
どこからも似たような返事が返ってきてしまいました。
「やばい、やばい、やばい、万策尽きてしまったかもしれない」
「グライコミクス研究所の所員は若く、相談相手にはなりません」
「さあ、どうする山田・・・」


(これが、GSR1200です。Scan IIIとは外装も仕様も大きく変更されました)

この続きは「GlycoStation誕生秘話(5)」にて・・・・、

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