GlycoStationとは、レクチンマイクロアレイとエバネッセント波蛍光励起法を用いたスキャナーを組み合わせて比較糖鎖プロファイリング解析を行う糖鎖解析のプラットフォーム技術の登録商標であります。この名称自体は、本ブログ著者(山田雅雄)が、モリテックス)横浜テクニカルセンター)グライコミクス研究所に在籍していた時代に名付けられたものです。そして、レクチンマイクロアレイにはLecChipという商標を獲得し、エバネッセント波蛍光励起法を用いたスキャナーには、GlycoStation Reader 1200(略して、GSR1200)という商品名が付けられました。また、GSR1200については、糖鎖の比較構造解析を非破壊で高精度に行えるという特徴を強調すべく、「糖鎖プロファイラー」という技術名称が冠されました。この技術は、バイオテクノロジーの中では数少ない国産技術として一世を風靡し、GSRは延べ40台以上が製造販売され、日本だけでなく、米国、欧州、東アジアにおいて広く使用されているのです。
この「GlycoStationの誕生秘話」をMxブログ記事として記録しておこうと思い立ちました。
その第一話は、2002年にまで遡り、当時名古屋にあったベンチャー企業である日本レーザー電子(NLE)から話はスタートします。日本レーザー電子は、最盛期には、30名を超える従業員が在籍し、売上高も5億円を超える事業規模を持っていましたが、残念なことに、起業してから約20年後の2004年に経営破綻を迎えてしまいました。日本レーザー電子の社長であった米田勝實氏は、元名城大学理工学部電気工学科の助教授であり、レーザー計測技術を専門としていました。彼が大学を退職し、日本レーザー電子を起業した時の事業内容は、もちろんレーザー計測技術の社会実装です。会社の成長と共に事業分野が拡大され、ナノテク関連製品を加え、更にはバイオテクノロジー関連にも事業分野を広げて行きました。ナノテク関連商品として最も有名なものはオスミュウム(Os)・コーターでしょう。これは電子顕微鏡用のサンプルを真空中でOsを薄くコーティングすることにより、サンプルのチャージアップを防ぎ、高精度に高倍率の電子顕微鏡画像が得られるようにするサンプル前処理装置です。またLB膜(ラングミュア-ブロシェット膜)製造装置も研究開発分野で評判を得ていました。LB膜はご存知のように水面上に展開した単分子膜を基板上に移しとって積層した分子膜であり、当時は半導体にしても超格子構造がいくつか実用化されており、機能分子を積層することで新しい分子デバイスを作り上げようという機運が高かった時期でもありました。そうそう、UVオゾンクリーナーもありました。DNAマイクロアレイの分野では、半導体の製造技術を真似たAffymetrixのGeneChipが2000年当時、すでに世界で圧倒的な強さを発揮していました。DNAマイクロアレイの事業分野の急速な拡大を目にして、日本レーザー電子は日本でいち早くDNAマイクロアレイ事業に参入し、2002年には、すでに5400種類を超えるマウスのcDNAをスポッティングしたDNAマイクロアレイを実用化していました。DNAマイクロアレイの製造には独自の先割れピンを用いたスポッターを自社開発し、大型のStampIIやラボ向けのStampmanというスポッターも自社開発し、マイクロアレイを読み取るためのレーザースキャン型の共焦点スキャナー(Scan II)らも商品に加えていました。バイオテクノロジー分野では、SPR分野にも積極的に進出し、国内ではBiacoreに続く二位のマーケットシェアを獲得していました。
自分が日本レーザー電子に参画したのは、2002年夏のことです。当時の日本レーザー電子は、本社を熱田区に置いていました。本社の入り口を入ると、右側に営業部(営業部長は、奥村秀行氏)があり、左手の鉄製の階段を上って右上(駐車場の上なのだが)に社長室が、左側には会議室や経理部がありました。入り口からの通路は奥深くまで長く長く伸びており、右側にはバイオテック用のクリーンルームやスキャナー開発用の暗室、最深部には理化学機器製造の部屋があり、その二階が技術開発部の居室となっていました。日本レーザー電子には、自分は開発部長として着任しました。前職(富士通株式会社)に比べると環境が全く異なりますし、現場を率いてきた社員たちの個性や能力をつかみ、この部隊をどうまとめ上げていくのがベストかを直感できるようになるまでには少々時間がかかりました。自分は富士通の部長をしていたので、皆さんもそれなりに敬意を払っては下さるのですが、何せよそ者ですし、違和感満載でした(笑)。バイオテクノロジー関連では、中国の医師免許を持つドクター(島田亮氏)や京大農学部卒のドクターもおり、機器開発には優れたノウハウを有する技術者も数名在籍しており、名大工学部卒のドクター(高島正剛氏)もいました。総じて高い技術力を持つ集団であり、正真正銘、新規開拓に挑戦的に挑むベンチャーという印象です。
入社ほどなくして、自分は取締役に昇進し、毎月の経営会議に顔を出す立場となりました。それから1年後には副社長になっていました。転職前に米田社長から聞いていた話とは裏腹に、経営状態は悲惨でした。経営会議は会議というのは名ばかりで正に喧嘩状態、「生きるか死ぬか」という瞬間が今ここにあることを実感します。「これ売れなかったら、来月給料ないよ」机をたたく音と怒号が響き渡る会議です。入社してから知ったのですが、日本レーザ電子は自分が入社した時点ですでに債務超過に陥っていたのです。経理部長からは、「山田さん、入社前に米田社長から聞いてなかったの?」と言われて返す言葉もありません。社長から名古屋の料亭でヘッドハンティングを受けて、美しい言葉だけを聞かされて、疑わなかった自分が甘かったのだ、そう思いました。しかし、当時の富士通の半導体事業も迷路に入ってしまっていましたから、どの道、自分は新天地を求めようとしていたのです。
日々の仕事は、取締役兼開発部長として、米田社長のご子息(米田英克氏)と協力して、cDNAマイクロアレイ、多チャンネル型のSPR装置(12ch-SPR)、エバネッセント波蛍光励起型スキャナー(SCAN III)らの開発をリードしつつ、経営者として、最後は副社長として、会社の立て直しのための事業プラン作成と資金調達に奔走していました。新たな事業計画を作ってのVCや銀行からの資金調達、大手企業との事業提携、更には事業売却を組み合わせた生き残り戦略の実践です。米田社長と二人で東京、関西、名古屋を飛び回る日々が続きました。いろいろ差し障りがありそうなので、何処とどういう交渉を行ってきたのかは流石にここではカットしておきたいと思います。とにかく債務超過という現実は、非常に厳しいです。「すごい、面白い技術ですね、マジ凄いです」「しかし、この負債の大きさは厳しいですね」「少し考えさせてください」・・・・・・、そしてすべての交渉がぶっ飛んで行きました。
しかし、何故、日本レーザー電子が債務超過に陥ったのでしょうか?それには幾つかの原因があります。一つは、タンパク質アレイの失敗、cDNAマイクロアレイの伸び悩み、SPRのピークアウト、そしてJSTのA-STEPの失敗でしょう。言い換えれば、多額の開発費を掛けたにも関わらず売れる新製品が生まれず、既存の売上も低迷し、キャッシュアウトしていたということです。この中でも最大の失敗は、A-STEPの事業だろうと思います。とある大学と産学連携で開発してきた技術なのですが、完成した頃には、技術的に競合するAFMの台頭に優位性を完全に失い、AFM関連マーケットを完全に失ってしまったのです。それにも関わらず、ともあれ技術は完成したんだからと成功のレッテルを貼られ、2億円を超える開発費が借金として丸ごと日本レーザー電子に降りかかったのです。これがなければ債務超過にはならなかったのではと思います。
そんな中、2002年末に、自分にとって大きな転機が訪れました。なんと、日本レーザー電子に入社して半年も経っていません(笑)。ひとつは鹿児島大理学部の隅田先生との出会いであり、もうひとつは産総研の平林先生との出会い、そして最後のひとつはモリテックスとの出会いでありました。隅田先生とは糖鎖アレイ、平林先生とはレクチンアレイ、そしてモリテックスは事業買収につながる案件でした。
激動の2003年が過ぎ去り、万策尽きて2004年春にはNLEは倒産することになるのですが、日本レーザー電子は、結局二つのグループに分裂して事業継承を進めることになりました。米田社長と自分らは、モリテックスのバイオテクノロジー関連技術の事業買収に乗っかり名古屋から横浜に転居することとなり、英克氏らは株式会社竹代の支援を得てナノテクノロジー関連と受託サービス関連を継承して名古屋に残るのです。後者が現在の受託解析サービスを主力事業とするフィルジェン㈱です。そして、日本レーザー電子で埋もれていた「SCAN III」が糖鎖とレクチンという新世界でモリテックスから国産独自技術として花を開かせることになるのです。
会社が倒産して皆が散り散りばらばらになる悲哀は、例えようがないくらい辛いです。社長が社員の親睦会のためにと取ってあった20万円で、会社の屋上に皆が集合して、あざびや伊勢海老といった極上食材を肴にバーベキューをして別れを惜しんだあの日の思い出、これは消え去ることはありません。社長は飲みすぎて転んで頭から血を流しました(笑)。富士通を退職しての自分の再出発は、僅か1年半で再出発を余儀なくされたのです。
この続きは「GlycoStation誕生秘話(2)」にて・・・・