モリテックスに入社したのは2004年のことですから、新参者の自分には、モリテックスが抱える影の部分には最初は気が付きませんでした。しかし、部長会に出るようになってからは、森戸会長のお姿も目にするようになり、独特なオーラがその場を支配していることに気が付きました。
具体的にはどんな反目があったのかは自分には定かではありませんが、2006年4月の取締役会で会長解任の緊急動議が発議され、森戸会長が辞任することとなります。これによってモリテックスの内紛が表舞台に上がり、ますますエスカレートしていきます。翌年の2007年6月の株主総会では、モリテックスと事業提携したばかりのIDECが森戸会長側に付き、森田社長らモリテックスの現経営陣との間でプロキシファイトが勃発します。結果的には、IDEC側が負けた形になるのですが、その後「議決権の行使に違法行為があったのではないか」とIDECとモリテックス間の紛争が勃発し、2008年2月の高等裁判所による和解成立までこの紛争がもつれ込みます。そして、この和解によって森田社長が退任し、新たに仁科氏が新社長に就任することになります。
2007年の株主総会と時期を同じくして、モリテックスは、同社の企業価値を上げるものとしてドイツのショットと事業提携契約を結んでいます。この事業提携によってショットの存在感はその後益々強くなり、2008年9月には、ショットがモリテックスにTOBを掛け、過半数を取得して社名もショットモリテックスに変更されます。自分を引き立ててくれた、森田社長も、小谷専務もモリテックスから既に居なくなってしまっています。
穿った見方ですが、新参者の自分からしてみると、この内紛は現経営陣の「モリテックスから会長の影響力をなくしてしまいたい」という思いを遂げるための、第三者(IDEC:会長側、ショット:現経営陣側)の力を借りての闘争劇なのですが、結果としては会長も社長も退任せざるを得なくなり、第三者(ショット)に会社を乗っ取られたということになります。そして、ショットモリテックスの社長には佐藤氏が就任し、岩本氏が取締役として生き残ります。まるで影のフィクサーが居たかのようなどんでん返しです。仁科社長もショットのTOBで短命で終わってしまいました。
一方、グライコミクス研究所の営業活動によってGlycoStationという存在が世界に広まるとともに、2008年にイスラエルの地からとんでもないクレームが舞い込みました。「御社の技術は弊社の特許を侵害している」。同じ特許侵害のクレームは、共同研究先であった産総研糖鎖工学研究センターの成松センター長にも届きます。産総研は学術研究機関であり営利企業ではありません。そんな産総研にまで特許侵害の警告を送り付けてきたのです。その相手とはProcogniaであり、直接的にはProcognia Japanの高畠末明社長と永富佐江子取締役です。特許侵害のクレームを読むと、NEDO SGプロジェクトで三井情報開発が開発した糖鎖構造推定ソフトがやり玉に挙げられているようです。確かにモリテックスからGlycoStationを上市した時には、パンフレットにこのソフトの存在が記載されていました。しかし、レクチンアレイの強さは、糖鎖構造の完全同定ではなく、比較糖鎖プロファイリングでしたから、こんなこともできるよという意味合いで掲載しているだけで、実際の営業活動では全く使用していませんでした。そこで真っ先に行ったのは、パンフレットからこのソフトを抹消することと、そしてProcogniaの出願特許の詳細吟味を行うことでした。特許の文面を読んであきれ返りました。
「なにこれ、こんな抽象的なクレームが許されるわけ?」
というのも、特許のクレームがあまりにも茫漠、何とでも解釈できるクレームだったからです。
こんな特許なら無効申請ができるに違いないとにらんだ我々は、山田、武石、小川の3人で徹底的に過去の関連特許を検索し、「この特許とこの特許の組み合わせにしかすぎず、特許としての新規性も進歩性もない」として「戦えば勝てるに違いない」と判断しました。そして、その報告書をモリテックスの法務部に提出し、Procognia特許の無効申請を行ってくれるように頼みました。
しかし時期が悪すぎました。ちょうど同じ時期に上記したモリテックス事件が勃発していたからです。法務部は会社の一大事としてそちらにエネルギーを取られ、これに加えて特許戦争も行うとなると特許事務所に支払う費用も海外との特許紛争ですから億単位にかさむ可能性があることから自分達のProcognia特許無効申請は捨て置かれることになるのです。
モリテックスもショットに買収され、バイオ事業を引っ張ってくれた森田社長もおらず、自分を引き立ててくれた小谷専務もいません。岩本取締役が唯一の頼りでした。岩本取締役は、ショットのオットマー・エルンスト氏にグライコミクス研究所の事業計画を取り次ぐ労を取って下さり、自分もショットという場でこの技術を育てられれれば「世界に大きく羽ばたけるだろう」と精いっぱいのプレゼンをさせてもらいました。しかし、ショット自体がバイオ系事業を事業ドメインとして据えていないことから、結果は残念ながら不発に終わります。
「グライコミクス研究所は、モリテックス内に居場所を失いました」
事ここに至っては、モリテックス以外に新天地を見つけるしかありません。
「仕方がない、モリテックスをスピンアウトして独立する為のエンジェルを探そう」
何社かのVCや事業会社にグライコミクス研究所の事業計画を説明し、投資のお願いを始めました。この時に大きな足かせになったのがProcogniaとの特許紛争です。
「この特許紛争を抱えたままではリスクが大きすぎて、投資が難しいですね」
どこからも似たような返事が返ってきてしまいました。
「やばい、やばい、やばい、万策尽きてしまったかもしれない」
「グライコミクス研究所の所員は若く、相談相手にはなりません」
「さあ、どうする山田・・・」

(これが、GSR1200です。Scan IIIとは外装も仕様も大きく変更されました)
この続きは「GlycoStation誕生秘話(5)」にて・・・・、